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村松甚蔵
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村松 甚蔵(甚藏、むらまつ じんぞう、1870年1月13日(明治2年12月12日[1][2][3])- 1945年(昭和20年)2月9日[1][4][5])は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
甲斐国山梨郡甲府柳町[1](山梨県[4]西山梨郡甲府柳町を経て現甲府市[5]中央)で、砂糖問屋・上野屋当主[1][2]、先代・村松甚蔵の四男として生まれる[2][3][6][注釈 1]。徽典館、垣岡精義の明憐社で漢学を学び[2]、さらに山梨県師範学校で学んだ[4][5][注釈 2]。1883年(明治16年)に上京し同人社で学んだ[2][4][注釈 3]。1894年(明治27年)10月、兄善蔵の後を相続して甚蔵を襲名した[3][6]。
1888年(明治21年)南洋貿易に従事し、その後、華南を遊歴し、1894年、朝鮮に渡り視察を行い帰国し、家業に従事した[2]。甲府商業会議所議員、大日本製粉専務取締役、南日本製糖取締役、日新館製糸取締役、山梨林業社長、日清製粉監査役、富士川電力監査役などを務めた[1][2][3][4][5][6]。
政界では、1919年(大正8年)山梨県会議員に選出され、同参事会員も務めた[4][5]。1927年(昭和2年)2月27日[7]、若尾璋八の辞職に伴う第15回衆議院議員総選挙山梨県第1区補欠選挙に立憲民政党から出馬して当選し[1][8]、衆議院議員に1期在任した[4][5]。
1910年(明治43年)甲府市の舞鶴城公園に南塘文庫に設け、その後、境町に私設図書館、汲古館[注釈 4]を建設して同文庫を移して一般の利用に供し[1][4][5]、また、慈善事業などにも私財を投じた[1]。また、1917年(大正6年)甲府城跡を陸軍省から払下げを受ける資金として山梨県に1万1622円を寄付している[1]。
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脚注
参考文献
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