トップQs
タイムライン
チャット
視点

松岡俊三

日本の衆議院議員 ウィキペディアから

松岡俊三
Remove ads

松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年明治13年)7月14日[1]1955年昭和30年)2月16日[2])は、日本の衆議院議員立憲政友会自由党)、拓務政務次官ジャーナリスト

Thumb
松岡俊三

経歴

山形県北村山郡楯岡村(現在の村山市)出身[3]1899年(明治32年)に浄土宗大学を卒業した後、日本法律学校(現在の日本大学)で学んだ[2]日露戦争に従軍[2]都新聞社に入り、政治部記者、副社長、常任監査役、編集顧問を歴任した[3]

1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回に至るまで7回当選を果たし、1940年(昭和15年)に発足した米内内閣では拓務政務次官を務めた。 この間、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。同年12月16日に罰金三百円の判決を受けている[4]

雪害救済運動に取り組み、雪の日本社を創設して機関紙「雪の日本」を発刊した[2]。また朝鮮の古乾原に植林事業を起こし、松岡林業所を経営した[2]

戦後は公職追放となり[5]、その後山形県大高根村に松岡開拓団を組織し、雪の観音郷開拓農業協同組合理事長を務めた[2]1947年(昭和22年)8月15日、昭和天皇が鶴岡市に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)した際には、開拓事業について奏上する機会を得た[6]

追放解除後の1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙山形2区から自由党公認で返り咲きを果たし[7]、翌年の第26回総選挙でも再選された[7]

1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙で自由党から立候補したが、公示後に病気のため立候補を辞退[8]。選挙中の2月16日に死去した[9]

Remove ads

著書

  • 『惨酷を極むる雪害地の地租解剖』(雪の日本社、1931年)
  • 『凶作克服より報恩更生へ』(雪国更生協会、1935年)
  • 『雪国地方地租軽減 土地賃貸価格調査者必携』(雪国更生協会、1935年)

脚注

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads