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松岡功
日本の実業家、テニス選手 ウィキペディアから
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松岡 功(まつおか いさお、1934年(昭和9年)12月18日[2] - )は、日本の実業家・テニスプレーヤー。東宝名誉会長(元代表取締役会長)、日本アカデミー賞協会名誉会長[3]。兵庫県芦屋市出身[4]。
経歴
要約
視点
小林一三の次男・松岡辰郎の次男として生まれた[5]。甲南幼稚園[6]から甲南小学校へ進学。小学校時代の同級生には野村文英がいたという。1945年には丹波市の慧日寺へ集団疎開した[7]。甲南中学校・高等学校[8]在学中は硬式テニス部に所属し、全日本ジュニア選手権ダブルスで優勝、高校総体では準優勝に輝いた[9]。甲南高校の2学年下には石黒修がいた[10]。
1953年、設立3年目の甲南大学へスポーツ推薦で入学した。松岡はこの当時「高校テニス三羽烏」の1人に数えられており[注釈 1]新設大学における広告塔として期待されていたという[11]。進学後はその期待に沿うべくテニスに打ち込み、全日本学生選手権でシングルス・ダブルスで合計3回の優勝を記録した[2][12]。大学4年次の1956年、デビスカップ日本代表となった[2]が、東宝のためにテニスを断ち切った[10]。次男の修造は、父がテニス選手だったことを長い間知らなかった[13]。
1957年に甲南大学経済学部を卒業[2]し、すぐに東宝に入社した[14]。1960年には、東宝の外国部アメリカ課、1965年には同ローマ課を歴任した[15]。1968年には東宝東和に出向し、1969年に取締役に就任した[16]。
1970年、東宝の取締役に就任し[17]、1973年には常務取締役[2]となり営業本部長の重責を担った[14]。1974年、父・辰郎の死去に伴い清水雅がピンチヒッターとして社長に復帰することになり、8月22日には将来の社長就任を見据えて副社長に就任した[2]。1976年5月25日には、代表権を持つ副社長となった。
1977年5月25日、東宝の代表取締役社長に就任[2][18]。創業者・小林一三の血筋への社長継承であったことから、大政奉還という表現が用いられた。当時松岡は42歳であり、40代での社長就任は日本映画界初であった[19]。かつての東宝の人気映画シリーズになぞらえて、若大将というニックネームも用いられた[20][21]。就任当時は映画産業の斜陽化が叫ばれていたが、テレビ世代の審美眼に応えられる映像を作ることを目標とした[22]。また日活が成人映画へと路線を変更したのに対し、松岡は「ポルノはやらない」と決め一般向け路線を堅持した[23]。
1995年には石田敏彦に社長の席を譲り、代表取締役会長となった[24]。2009年には名誉会長となった[25]。
グループ企業においては、1985年に阪急電鉄の取締役に就任した[26]。2005年には持株会社化した阪急ホールディングス取締役、さらに阪神電鉄を合併した2006年には阪急阪神ホールディングス取締役に就任した。2015年に退任した[27]。
また、東宝はフジテレビ制作の『子猫物語』『南極物語』などを配給し収益を上げていたことから、フジ・メディア・ホールディングスの取締役を2017年まで務めた[28]。
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家族・親族
- 小林一三(父方祖父[2])- 阪急東宝グループ創業者
- 松岡潤吉(母方祖父)- 松岡汽船創業者
- 小林米三(叔父)- 京阪神急行電鉄社長、関西テレビ放送初代社長、宝塚歌劇団理事長
- 松岡辰郎(父[2])- 松岡汽船代表取締役社長、東宝代表取締役社長
- 松岡通夫(兄)- 松岡汽船代表取締役社長
- 小林喜美(姉)- 叔父・小林米三の養女、阪急電鉄相談役・小林公平の妻、阪急阪神HD取締役・小林公一の母
- 千波静(妻)- 元宝塚歌劇団雪組男役
- 松岡宏泰(長男)- 東宝東和取締役会長、東宝代表取締役社長 社長執行役員
- 松岡修造(次男)- タレント、元プロテニスプレーヤー
- 辻芳樹(長女の夫)- 辻調理師専門学校校長
- 田口惠美子(次男の妻)- 本名:松岡惠美子。元テレビ東京アナウンサー
- 辻雄康(孫)- 長女の息子。ラグビー選手
- 稀惺かずと(孫)- 次男・修造の娘。宝塚歌劇団星組男役
連載
演じた俳優
脚注
参考文献
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