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松平家次

日本の戦国時代の武将 ウィキペディアから

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松平 家次(まつだいら いえつぐ)は、戦国時代武将桜井松平家3代当主。通称は監物[3][2]

概要 凡例松平家次, 時代 ...

略歴

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安城市の菩提寺にある桜井松平家歴代の墓所。家次の墓は左から2番目。

松平清定の嫡男として誕生。

天文14年(1545年)、広畔畷の戦いで、家次は父・清定、酒井忠尚榊原長政らと共に松平広忠と戦うが敗れる。翌年には忠尚は許され、家次の居城・尾張国品野城愛知県瀬戸市品野町)は忠尚の居城となり、品野城を明け渡す。天文22年(1553年)、三河国下和田(愛知県岡崎市下和田町)の領地を巡り、主君・今川義元に訴え、東条松平家松平忠茂と争うが、弘治2年(1556年)、家次の敗訴に終わる。松平元康(徳川家康)の命で品野城に攻めてきた織田軍を撃退し、功績をあげた。

永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起きると一向衆側に味方した[3]

漸シタル処に、永禄五年壬戌に、野寺之寺内に徒者の有ケルヲ、坂(酒)井雅楽助押コみて検断シケレバ、永禄六年癸亥正月に、各々門徒衆寄合て、土呂・鍼崎・野寺・佐々き(崎)に取籠リて、一騎(揆)ヲヲコシて御敵ト成。(中略)。其耳弄、桜井之松平監物(家次)殿モ荒河(義広)殿ト仰被レ合て、別心ヲ被レ成けり。
三河物語

永禄6年(1563年)7月29日死去[3][2]

松平家忠日記』には一揆が収束した永禄7月(1564年)2月に、家次が「累世の御家門」であるとして許されたという記事がある[2]。『寛政譜』では、永禄6年没に疑義を示している[2]。永禄7年没とする説もある[3]

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系譜

『寛政重修諸家譜』では以下の順で子女を記している[4]

脚注

参考文献

外部リンク

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