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板倉勝殷

日本の江戸時代の大名、上野安中藩の第6代藩主 ウィキペディアから

板倉勝殷
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板倉 勝殷(いたくら かつまさ/かつたか)は、江戸時代後期の大名上野国安中藩最後の藩主。官位従五位下主計頭。重形系板倉家8代。

概要 凡例板倉勝殷, 時代 ...

生涯

文政3年(1820年)1月12日、先々代藩主・板倉勝尚の三男として誕生した。安政4年(1857年)閏5月11日、兄で先代藩主の勝明が死去したため、家督を継いだ。同年6月25日、13代将軍・徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・主計頭に叙任する。安政6年(1859年)2月、大坂加番を命じられる。幕末期には和宮降嫁のために中山道の守備を務めた。ちなみに、「偽官軍事件」として有名な赤報隊事件はこの安中で起こっている。

慶応4年(1868年)1月13日、徳川慶喜から上野碓氷郡の警備の強化を命じられる。同年3月、老臣を上洛させて、新政府に恭順の姿勢を示す。同年4月19日、新政府軍に弾薬を献上する。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還で安中藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官される。8月に東京へ移った。

晩年から死後の家督相続

明治5年3月5日1872年4月12日)、勝殷は隠居して婿養子の勝任に家督を譲った[1]。ところが、勝任は翌明治6年(1873年)8月19日に隠居し[1]、家督は勝殷が再襲するも勝殷は同月31日に死去した[1][2][3]。享年54。

勝殷の死後、同年10月24日に四女の種子が板倉家の女戸主となり[1]、明治10年(1877年)10月13日に種子の夫の久知が家督を継いだが[1]、明治13年(1880年)1月17日に久知が隠居し[1](直後に離縁して実家の中川家に復籍)、再び種子が女戸主となった[1][3]。明治16年(1883年)12月10日に種子は隠居して養女の花子(実姉、勝殷の三女、勝任の元妻)に家督を譲った[1]

明治19年(1886年)、花子は2人目の夫に板倉勝観(戸田央、元川越藩松平康載)を迎え、勝観は同年4月6日に家督を継ぎ[1][4]、同月24日に子爵を叙爵した[1][5]

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系譜

子女は2男5女

父母

正室

  • 鈴木勘次郎の娘

子女

養子

系図

数字は当主の継承順。

板倉勝尚1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板倉勝明2
 
分部光貞
 
板倉勝殷3/5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板倉勝任4
 
板倉花子9
 
板倉勝観10
 
板倉種子6/8
 
板倉久知7
 
 
 
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脚注

参考文献

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