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降嫁

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降嫁(こうか)とは、皇女王女皇族王族以外の男性に嫁ぐことをいう。

中国

中国王朝では古代から近隣諸国の関係を維持するため、皇帝のもとから嫁ぐいわゆる和蕃公主の降嫁が行われた[1]

和蕃公主の降嫁は五胡十六国北朝、さらにそれを承けた隋唐においては特に中国皇帝からの恩寵として盛んに実施された[1]安史の乱以降になると、中原王朝では和蕃公主の降嫁は減少していく一方、契丹西夏など非漢民族王朝では、婚姻による外交政策の実施が盛んに見られた[1]

隋では文帝時代に4人(北周から養女となった大義公主を含む)、煬帝時代に2人が、突厥西突厥吐谷渾高昌に降嫁した[2]

唐代は歴代中国王朝で最も和蕃公主の降嫁が盛んにおこなわれた[3]

和蕃公主の降嫁に伴って宗室の女性も同行し、和蕃公主が帰国あるいは逝去した後も近隣諸国にとどまって影響力を及ぼしていた[3]。また、和蕃公主の降嫁の際には唐から金銭や絹織物など文化を誇示する品々が賜与され、降嫁先の君長の臣下にまで広く分配された[3]

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日本

要約
視点

日本では皇族女子の内親王女王が非皇族(臣下)に嫁ぐ場合を指す。

歴史

奈良時代以前

婚姻の制限の規定は、天皇の血縁的尊貴性を高めるために設けられたと考えられている[4]。古代社会の身分制おいては血統が重要視されていたため[4]、「天皇-臣下の女子」の子孫に対し、「皇族女子-臣下の男子」の子孫という、血縁的尊貴性が類似した系譜が生じることを防ぐ必要性があった[5]。第16代仁徳天皇の時代に、既に異母兄妹婚が多くみられることから、5世紀初頭までに皇親女子の婚出規制が設けられていたと考えられている[5]

内親王の結婚相手は律令の『継嗣令』では天皇もしくは四世以上の皇親に限るとされ、古代には非皇族との結婚はなかった。

また、それ以外の皇親女子の婚姻に関する規定もほぼ同じであり、当時皇親としての法的扱いの範囲外とされ、皇親女子の称号であった「女王」を名乗ることのみが許されていた「五世王」(天皇から5世の子孫)の女性と臣下の婚姻が認められるに過ぎなかった。なお、慶雲3年(706年)2月16日のによって、五世王と臣下の婚姻も禁じられている(『続日本紀』)。古代においては、内親王の身位は保持することができた[6]。このように、8世紀以前においては、6世以降の皇親女子しか臣下との婚姻が認められていなかった[7]

今江広道の研究によれば、8世紀においても3例の皇親女子と臣下の婚姻があるが、上記の規定内又はかろうじて抵触する程度の世数の皇親女子であった[8]。明らかに抵触する例としては、加豆良女王(舎人親王の孫娘、三世王)と藤原久須麻呂の婚姻がある[4]。これは、久須麻呂の父藤原仲麻呂の権勢によって、強引に成立させられたものと考えられている[4]。また、山背王の娘と藤原巨勢麿の婚姻も、山背王の父長屋王が失脚後、山背王が臣籍に下り「藤原弟貞」となり親仲麻呂派として仲麻呂との関係を深めるために画策されたと考えられ、その時期は天平勝宝9歳以降であり、適法であると考えられている[4]

以上のことから、加豆良女王と藤原久須麻呂の婚姻を除き、規定は厳格に運用されていた[4]

平安時代

9世紀に至り、延暦12年9月1日、第50代桓武天皇によって、大臣・良家の子孫には「三世王」(天皇の曾孫)以下との婚姻が許容されるようになった[9]。特に、桓武天皇擁立に貢献があった藤原氏に対しては例外的に「二世王」(天皇の孫)との婚姻を許すことになった(『日本紀略』)。桓武天皇はもともと天智天皇系の傍系であったため、血統意識が歴代天皇より低かったため、このような大きな方針転換が可能であったと考えられている[9]

もっとも長年の伝統的観念は広く貴族社会に残り、山輪王の娘(世数不明)と藤原葛野麿の婚姻、大庭王の娘(四~六世王)と藤原冬嗣 の婚姻が行われたが、いずれも天皇からの血縁は遠く、また妾であった[10]

大きな転換点は、史上初めて天皇の皇女と臣下の婚姻例である、第52代嵯峨天皇皇女源潔姫藤原良房である。潔姫は5歳で賜姓降下しており、14歳で良房と婚姻した[10]臣籍降下は桓武朝以降行われるようになったが、女子に対して行われるようになったのは嵯峨朝以降である[11]。しかし、その後、第57代陽成天皇までに賜姓降下した女子25名中、臣下と婚姻した者は皆無であり、降下後も皇親女子同様に臣下との婚姻は困難であった[12]。潔姫の次の例は、約100年後の源順子(第59代宇多天皇皇女とされる)である[12]

同時代の文学作品である『源氏物語』においても、大宮左大臣正室、頭中将葵の上の母)、女三宮光源氏正室)、落葉の宮柏木正室、のち夕霧と再婚)、女二宮正室)などの例が見られる。

中世~近世

女院の増加や内親王宣下の減少などにより、平安後期から鎌倉室町時代にかけて、内親王の降嫁は殆ど途絶える。江戸時代に入り五摂家への降嫁が復活、また幕末には和宮親子内親王将軍徳川家茂に嫁し、唯一武家への降嫁の例となった。

なお内親王・女王は非皇族と結婚しても、本人の皇族としての身分はそのままであり、皇族を離れて嫁ぎ先の姓を名乗ることはなかった。

近現代:皇室典範の制定

1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法と同日に公布された皇室典範(いわゆる旧皇室典範)において、外国王室との婚姻を防ぐため、皇族女子の婚姻相手は皇族・華族に限定された[13]。ただし、制定に至る議論の中、西洋の「プリンセス」が婚姻後も身位や称号を維持できることと比し、降嫁によって内親王・女王の身位を喪失することが不当であるとの主張もあり、特旨によりその身位を保持する余地が残された[6]。1920年(大正9年)4月に、王族李垠と婚姻した梨本宮家の方子女王が、大正天皇の「御沙汰」によって、婚姻後も女王の身位を保持している[14]

この旧皇室典範下においては、「内親王の降嫁」事例は存在しなかった[注釈 1]。女王は多くが、華族の当主または継嗣との婚姻を行った。

1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法と同日に施行された皇室典範により、皇族女子は皇族男子以外と婚姻した場合は、例外なく皇室を離れることとされ、身位保持の余地もなくなった。孝宮和子内親王鷹司平通と婚姻することで、文久2年(1862年)の和宮降嫁以来89年ぶりの「内親王の降嫁」事例が発生した。鷹司家は、五摂家の旧公爵家であったが、華族制度廃止により「平民」となっていた。その妹清宮貴子内親王においては華族出身ではあったが継嗣ではない(佐土原藩主家の次男である)島津久永と婚姻、より狭義の「平民」に相当する人物と内親王との初の婚姻事例となる。

その後三笠宮家出身の容子内親王が初めて、皇族・華族の血を直接引かない広義の平民出身者である千宗室[注釈 2]と婚姻、紀宮清子内親王が同様に天皇の皇女としては初めて旧華族ではない平民出身者である黒田慶樹と婚姻している。

皇室典範における規定

現行

皇室典範第十二条
皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

※引用註:()内は現代かな遣い・新字体に改め、句読点を補ったもの
(旧)皇室典範第四十四條
皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタルハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ
(皇族女子の臣籍に嫁したる者は、皇族の列に在らず。但し、特旨に依り、なお内親王・女王の称を有せしむることあるべし)

非皇族に降嫁した皇族女子

皇女の降嫁の初例としてよく挙げられるのは、嵯峨天皇皇女源潔姫藤原良房の婚姻であるが、潔姫の場合は結婚前に既に姓を賜り臣籍に下っており[注釈 3]、内親王と臣下が結婚した初例は醍醐天皇皇女勤子内親王藤原師輔である。ただしこの時は父天皇の許可を得ていなかった[注釈 4]と見られ、天皇により内親王の降嫁が裁可されたのは、三条天皇皇女禔子内親王の例が最初とされる。

古代~中世

近世

近現代

さらに見る 名前, 降嫁後 ...
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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