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柿並弘慶
日本の室町時代中期~戦国時代の武将 ウィキペディアから
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柿並 弘慶(かきなみ ひろよし)は、戦国時代の武将。大内氏家臣。父は大内教幸。兄弟に牛久山口氏の祖となった山口任世がいる。
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生涯
応仁の乱の最中の文明2年(1470年)2月、将軍・足利義政は大内教幸(道頓)を大内氏当主と認め、本来の当主である大内政弘を討つよう命じた。法体の教幸に代わって、嫡男の大内加嘉丸が守護職に補任されたが、教幸は同年12月に挙兵した陶弘護に周防国玖珂郡で敗北。敗れた教幸は安芸国で仁保盛安と合流して石見国に転戦、さらに長門国阿武郡の賀年城を拠点に反攻しようとしたが、翌文明3年(1471年)12月に再び敗れて豊前国に落ち延びた(大内道頓の乱)。
この時期の弘慶(当時は千代丸)の動向は不明であるが、後に長門国阿武郡川上村の柿並谷に居住して、苗字を「大内」から「柿並」に改めた。また、「弘慶」という諱も、大内政弘から「弘」の偏諱を与えられたものとされる。
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参考文献
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