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桂小文治 (2代目)

日本の落語家 (1893-1967) ウィキペディアから

桂小文治 (2代目)
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2代目(初代)桂 小文治(かつら こぶんじ、1893年3月28日 - 1967年11月28日[1])は、大正昭和期の落語家。本名∶稲田 祐次郎[1]出囃子∶『野崎』[要出典]

概要 本名, 生年月日 ...

代数表記については桂小文治の項を参照のこと。

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生涯

現在の大阪府大阪市港区出身[要出典]。小学校卒業後、1906年(明治33年)に初高座を踏む[2]。『古今東西落語家事典』は14歳の時に2代目桂文團治(のちの7代目桂文治)門下で9代目桂小米を名乗ったとする[1][注釈 1]1916年(大正5年)、2代目桂米丸を襲名して 真打格とされる[1]三友派若手の有望株として踊り、声色で活躍する[要出典]

1917年(大正6年)8月末に、東京寄席演芸株式会社から1か月間という契約で上京する誘いがあり(睦会と競合するための人材補強が目的)、橘家圓歌(のちの橘ノ圓都)らとともに東京に向かう[1]。そのまま東京に居着くことになる[1]

小文治は東京に行ったのち、師匠文治の引退興行の時に大阪に顔を出したが、小文治を可愛がっていた4代目橘家圓蔵が引退する文治よりも小文治の宣伝をしたため、小文治の兄弟子初代桂春団治が激怒し、止めに入った小文治を蹴飛ばし、舞台上で圓蔵を罵倒した、それがゆえに大阪へ戻れなくなり、東京に骨を埋めることとなったといわれている[誰によって?][要出典]

1918年(大正7年)5月、桂小文治に改名して真打に昇進した[1]。その後1922年(大正11年)4月[要出典]、落語睦会に移籍した[1]6代目春風亭柳橋、(俗に)3代目春風亭柳好8代目桂文楽と並ぶ「睦の四天王」と称される[1]。その後日本演芸協会、さらに日本芸術協会(現:落語芸術協会)に加わり、副会長として、会長の6代目春風亭柳橋を補佐する[1]。大阪落語の出身でありながら、東京落語界の幹部となった。上方落語復興にも尽力した[1]

この間、1929年には長女が生まれた[2]

1961年、『紙屑屋』で文部省芸術祭奨励賞を受賞した[1]

1967年11月28日死去[1]。満74歳没(享年75)。墓所は寛永寺第一霊園[要出典]戒名は生前からすでに用意していた「芸能院桂小文治居士」[1]。小文治没後の副会長は総領弟子5代目古今亭今輔が就任した。

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芸風

始めは上方仕込の芝居噺や、江戸弁上方弁をミックスした新作落語を演じていたが、晩年は、本格的な上方落語を演じるようになった[要出典]橘左近は『古今東西落語家事典』において「純上方弁を江戸前に改良しながら、独自の『小文治落語』を確立した」と評している[1]得意ネタは芝居噺では『加賀見山』『質屋芝居』『蛸芝居』『蔵丁稚』、音曲噺では『紙屑屋』(1961年度文部省芸術祭奨励賞受賞)『辻占茶屋』『稽古屋』。本格派の落語では『しじみ売り』『木津川』『百年目』『菊江の仏壇』『七度狐』『出歯吉』『正月丁稚』『稲荷車』『鳥屋坊主』『立ち切り』など。[要出典]

若柳流の踊りの腕は高く、『奴さん』『名古屋甚句』『かっぽれ』『深川』などを高座で披露し、橘左近は「小柄な身体にはんなりした色気を漂わせ」たと記している[1]

一門弟子

面倒見の良い性格で、他所の門を失敗した落語家を引取ったため、門人も多かった(このため、小文治一門は現在、芸術協会の大半を占め、80名の真打の中で50名以上いる)[要出典]

孫弟子などは小文治一門を参照。

移籍

廃業

出演

  • あなたと私の合言葉 さようなら、今日は(1959年、大映映画)

脚注

参考文献

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