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桂小南 (2代目)
日本の落語家 (1920-1996) ウィキペディアから
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2代目 桂 小南(かつら こなん、1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、東京で上方落語を演じた落語家。特に『いかけ屋』で知られる。本名∶谷田 金次郎。
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経歴
要約
視点

1920年(大正9年)、京都府北桑田郡山国村井戸(現在の京都市右京区)に、左官業・谷田政吉の三男として生まれる[1][注釈 1]。小学校を修了したのちの1932年(昭和7年)、京都市今出川寺町[要出典]の印刷店に奉公したが、「見込みちがい」を感じて1年半で夜逃げした[3]。建具屋の叔父を介して京都市内の呉服問屋にうつった[3]。
呉服問屋では、すぐに東京日本橋富沢町の半襟小間物問屋に移された[4]。当時は浅草の松屋百貨店が担当で、かつ午後は暇だった(夕方に来た注文を翌日納品すればよかった)ため、空いた午後に浅草で映画や芝居などを見ていた[4]。当初は演芸に興味はなかったが、招待された日本橋倶楽部の名人会で5代目古今亭志ん生の高座を見たことで、寄席通いを始める[4]。小南によると「十七歳」(数え年とみられる)の時だった[4]。
1939年(昭和14年)、3代目三遊亭金馬の内弟子となり、山遊亭金太郎を名乗る[5]。金馬に入門したのは、落語家になるためにどこに行けばよいかわからず、電話帳に名前と住所が載っていた金馬の自宅を探して訪ねたためという[6]。しかし、京都出身ということもありすぐに弟子入りは認められず、毎週日曜日に半年通ってようやく「店が休みのときに遊びに来なさい」と金馬から告げられる[6]。勤務先ではすでに羽織を着る身分で、店主は小南を養子に迎えるつもりだった[7]。その猛反対を押し切る形で、本格的な弟子入りを志して退職した[7]。この結果親からは勘当を受ける[7]。
入門当初は金馬が東宝専属であったため寄席の定席には出られなかった。また師匠の出演する東宝名人会も若手の真打が前座を務めるような状況で、小南が出演できるものではなかった[8]。このため、東宝が昼席に別に開いた「笑話会」の前座が初高座となった[8]。太平洋戦争中は召集を受け、1943年(昭和18年)の年末に除隊・復員となる[8][注釈 2]。復員後には東宝名人会での満州慰問にも参加し、以後終戦まで兵役には就かなかった[8]。
戦後は東宝の寄席に出たが、金馬から「おまえは上方落語の方がいいから」という理由で2代目桂小文治の身内となる(自身の記述では1953年(昭和28年))[10][11]。その時点で覚えていた「七、八十」の江戸噺をすべて捨てて上方落語を習得するとともに、落語芸術協会に加入した[10]。上方落語の演目は、金馬とともに戎橋松竹に行った際に4代目桂文團治からかなりの噺を教わり、「もうおまえに教えるはなしはないわ」と橘ノ圓都を紹介される[12]。当初は圓都は「長いことやってないから」と及び腰だったが、「あらすじだけでも」と教えているうちに「これならまだやれるなぁ」と金馬の仲介で戎橋松竹に出演したという[12][注釈 3]。このほか、文の家かしくにも教わった[12]。
1958年(昭和33年)9月、2代目桂小南を襲名して10代目桂文治、5代目春風亭柳昇、三笑亭夢楽、三遊亭小圓馬、4代目春風亭柳好とともに真打となった[5][13]。当初は「右女助」の名跡を継ぐべく、8代目桂文楽との交渉に及んだが、逆に文楽に見込まれ、彼が持つもうひとつの名跡の「小南」を譲られることとなった[14][注釈 4]。
独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。1969年(昭和44年)には文化庁芸術祭大賞を受賞しており、1968年(昭和43年)と1981年(昭和56年)には文化庁芸術祭の奨励賞、1989年(平成元年)には芸術選奨文部大臣賞を受賞した。[要出典]
1984年(昭和59年)1月に桂文朝、桂文生、桂南喬、文生の弟子桂きん治が落語芸術協会を脱退、5代目柳家小さん門下として落語協会に移籍している。[要出典]
1996年(平成8年)5月4日、脳梗塞により死去、76歳没。
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得意ネタ
- 『いかけ屋』
- 『帯久』
- 『菊江の仏壇』
- 『三十石』
- 『しじみ売り』
- 『七度狐』
- 『ぜんざい公社』
- 『代書屋』
- 『胴乱の幸助』
- 『土橋萬歳』
- 『菜刀息子』
- 『雛鍔』
- 『百年目』
- 『河豚鍋』
- 『箒屋娘』
- 『夢八』
- 『ん廻し』
- など、得意ネタは200を超えた。CBSソニーからLPレコードが残されている。
人物
説明するのに面倒だから、と「京都出身」で通していた。このため、京都市出身と理解する人も少なくなかった。なお、山国村は1955年(昭和30年)に京北町となり、さらに前記の通り2005年(平成17年)に京都市右京区に編入されているため、現在では京都市出身でも間違いではなくなっている。また、自分の落語は東京と大阪の中間だからということで例えとして「静岡落語」を名乗っていたが、静岡県出身者と間違われるということで後には使わなくなっている。[要出典]
趣味は水彩画。仕事で地方に行った際は画廊や骨董店をよく巡った。[要出典]
笑福亭鶴光は東京の寄席で定席を持つようになったころ、小南から気遣いを受けたと述べている[15]。
寄席・若竹に客演した際、小南の顔を知らなかった前座(のちの伊集院光)に楽屋ではなく客席に案内された。伊集院は周囲から叱られたが、当の小南は笑っていたという[要出典]。
弟子
弟子は全員東京の落語家で、東京弁で落語を演じている[11]。
5代目柳家小さん門下へ移籍
廃業
- 桂なんば
著書
小学生向けの古典落語の本を出版し、各地で「学校寄席」を開くなど、6代目柳亭燕路と同様に低年齢層への古典落語普及に努めた。
単著
- 東大落語会 編『桂小南集』青蛙房、1972年。ASIN B000J94MHE。
- 『落語案内』立風書房、1982年6月。ASIN B000J7KLJO。
共著
脚注
参考文献
関連項目
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