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桂萬光

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桂萬光
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桂 萬光(かつら まんこう)は、上方落語名跡。現在は空き名跡となっている。

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結三柏は、桂文枝一門の定紋である。

以下の各代以外にも、7代目桂文治2代目桂文團治)の門下で、東京の2代目桂小文治の弟分だった噺家がいて、桂米丸の後に萬光を襲名したが、間もなく死亡したため、現在は米丸としても萬光としても代数には数えられていない[1]

初代

初代 桂 萬光生没年不詳)は、本名、享年とも不詳の落語家[2]

2代目桂文枝(後の桂文左衛門)の最初の師匠と言われ、当時の高座名「桂南光」は萬光に由来するとされる[2]。その他の詳細不明。

2代目

概要 本名, 生年月日 ...

2代目 桂 萬光1841年天保12年)[注釈 1] - 1905年明治38年)4月21日[3])は、明治期の上方落語の落語家。本名: 上村 龜之助[3]。享年65[3][注釈 2]

現在の大阪府大阪市中央区安堂寺町に生まれる[3]。刀屋の堀江與助の次男[3]明治維新廃刀令により生家が廃業となったため、元来芸事が好きで[要出典]北新地幇間となり、九八を名乗る[3]1876年に36歳という中年で2代目月亭文都の門下となり都治を名乗った[3]1884年ころに[要出典]2代目桂文枝門下に移り、2代目萬光を襲名した[3]

幇間出身であることを生かし、『背虫の住吉詣り』『死人茶屋』『桜の宮』などが十八番で[3]他にも『一休』をよくやっていた。[要出典]名声は高くなかったものの、桂派の重鎮として活躍した[3]。会心居主人が書いた「思い出の明治の落語」(雑誌『上方落語』5号)によると、小柄で喘息持ちでゴロゴロと鳴らしながらの落語だったが、芸の力はそれを感じさせず、『死人茶屋』は何度聞いても爆笑させるほどの実力の持ち主だったという[3]4代目桂米團治は、この2代目萬光を崇拝しており、若いころは咳の仕方まで真似ていた。また、趣味で鴬を飼っていたという。[要出典]

1905年4月6日法善寺金沢亭と新町瓢亭での『一休』が最後の高座となった[3]

弟子には笑福亭圓歌がいる[要出典]

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3代目

概要 本名, 別名 ...

3代目 桂 萬光1874年(明治7年) - 1917年大正6年)11月22日[4])は、明治・大正期の上方落語の落語家。本名: 伊豆 徳松[4]。享年44[4][注釈 2]2代目桂小文枝は実弟[4]

兄・弟とともに落語好きに育ち、播重席で開かれる素人落語に兄弟揃って出演していた。後に3人とも初代桂枝雀の門下になり、長男は雀四郎(大成せず)[要出典]、自身は雀之助、弟は雀三郎(後に2代目桂小文枝)を揃って名乗った[5]1912年5月に3代目萬光を襲名する[4]。同年、寿々女会が結成された時、師・枝雀と行動をともにするが、後、三友派に移る[4]。しかし、1917年に死去した[4]。法名は「釋行徳」[4]

4代目桂米團治が「近世落語家伝ノ七」(『上方はなし』第26集に寄稿)に記しているところでは、次のような人物像であった[4]

目が大きかったため「台湾金魚」とあだ名された。「器用型」とされて豊富なネタを持ち、そつはなかったが上手にできるネタはなかった。顔芸や四つ竹などの余芸で「お茶を濁していた」。舞台度胸がなく、愛嬌と魅力に乏しかったため贔屓客がなくて貧乏であった。香盤の順位も遂に弟の小文枝を抜くことができなかった。『背虫茶屋』が客から人気だったため、頼まれればたいてい演じていた。

SPレコードには、『まんじゅうこわい』を構成し直した『饅頭喰ひ』と、『正月丁稚』が残されている[要出典]

弟子には桂萬十(後の林家染蔵)がいる[要出典]

脚注

参考文献

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