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笑福亭圓歌
日本の落語家 (1882-1952) ウィキペディアから
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笑福亭 圓歌(しょうふくてい えんか、1882年11月14日 - 1952年3月31日[1])は、上方落語の落語家(上方噺家)。歌舞伎役者の2代目中村鴈治郎の義父[1]。本名∶沖本 房吉[1]。
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経歴
現在の大阪府大阪市住吉区に生まれる[1]。幼くして両親を失う[1]。1893年、2代目桂萬光の門下となり萬蝶を名乗り、12歳で初高座[1]。その後、歌舞伎役者の初代中村霞仙の養子となり[1]、高座を離れる。後に中村家と離縁され[要出典]、19歳から23歳にかけて東京で清元を修行する[1]。帰阪後の1906年前後[要出典]に素人落語に加わる[1]。堺で牛乳屋のかたわら[要出典]「琥遊三」を名乗ったり、「文香」を名乗り和歌之助(→二代目笑福亭福圓)とともに北陸地方に行[要出典]ったりした[1]。1907年、[要出典]藤原年史に入門して藤原好史を名乗り、次いで1909年に[要出典]笑福亭圓歌となる[1]。襲名後は京都と大阪を中心に活動した[1]。
42歳の時、漫才の台頭で落語に見切りを付け、京都市中京区河原町三条付近で小鳥屋を営んだ[1]。後に5代目笑福亭松鶴が主催する「楽語荘」同人となり、幾度か高座にも上がっている[要出典]。墓所は京都市中京区裏寺町の宝蔵寺で、法名は鶯空圓歌禪定門位[1]。
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芸風
好史時代は豆電球つきの盆廻しや布団廻しで人気を得る[1]。圓歌となってからは、江州音頭や、『のりやの看板』『理屈按摩』などの音曲噺を得意とした[1]。高座の終わりには、必ず大津絵節の『楠公』などを踊ったという[1]。
人物
脚注
参考文献
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