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桂藤兵衛

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桂 藤兵衛(かつら とうべえ)は、落語名跡。もとは上方落語の名跡だった。当代は東京落語家で3代目を名乗る。

月亭春松編の『落語系圖』は、元川傳吉の桂藤兵衛を2代目としている[1][2]。しかし、『古今東西落語家事典』は、元川傳吉の桂藤兵衛について「墓石・新聞記事・その他の資料はすべて『三代目』となっており、今はこれにしたがう」として、3代目に扱っている[2]。この項では、便宜上、元川傳吉の桂藤兵衛を上方3代目とし、当代を東京3代目とする。

  • 初代桂藤兵衛 - 初代桂文枝[3]
  • 2代目桂藤兵衛 -  『古今東西落語家事典』は「初代桂梅枝が藤兵衛を名乗ったという記録があるが、詳細は不明である」とする[3]
  • 上方3代目桂藤兵衛 - 本項にて詳述。
  • 江戸3代目桂藤兵衛 - 当代、本項にて詳述。

上方3代目

概要 本名, 生年月日 ...

3代目 桂 藤兵衛(かつら とうべえ、1849年嘉永2年) - 1902年明治35年)5月31日[4][注釈 1])は、明治期の上方落語の落語家(上方噺家)。本名∶元川 傳吉[4]

経歴

大坂安治川通三丁目の米屋の子として生まれる[4]。幼名は龜吉[4]

17、8歳の頃、初代桂文枝の男衆に入り、文馬を名乗り九郎右衛門町の大富という席で前座に出る[4]。数年後文車と改名[要出典]

その後東京へ赴いた時期があり、大阪に戻ってから初代桂文之助門下となり文字助を名乗る[4]1885年3月、3代目桂藤兵衛と改名する[4]。以降、京都新京極の幾代亭に長く出演して、「桂藤兵衛藤原忠勝入道顋無齋しむさい」と自称し、京都の名物男と称された[4]

1898年夏、同じ新京極の笑福亭に移籍[4]1900年正月、大阪に出て、西國坊明學と組んで「藤兵衛」の「藤」と「明學」の「明」に因んで「藤明派」を立ち上げ、桂派三友派と張り合うが、翌年秋ごろ、心臓の病で体調を崩して京都へ戻り、1902年に六角富小路下ルの自宅で病没[4]享年54(一説に51)[4]

活動

「顋無齋」の名乗りの通り、顎が短かかった[4]。加えて、眉太、色黒で、『古今東西落語家事典』は「木魚に目鼻をつけたような顔」と評している[4]

木遣崩し鎌倉節オッペケペー節郭巨の釜堀(テケレッツのパー)などをはやらせ、『三十石』の舟唄を得意としたという[4]

弟子

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江戸3代目

概要 本名, 生年月日 ...

3代目 桂 藤兵衛(かつら とうべえ、1952年1月13日[5] - )は、東京都文京区出身の落語家。本名∶上 弘明[5]落語協会所属。出囃子は『青すだれ』。

経歴

1969年6月に8代目林家正蔵(のち林家彦六)に入門、前座名は「林家上蔵[5]。この「上蔵」の名前はかつて4代目林屋正蔵が名乗っていたことがある[6]

1974年9月に二ツ目昇進[5]1981年12月に国立演芸場花形若手演芸会新人賞金賞を『そば清』で受賞[要出典]1982年1月、師匠の彦六が死去[7]。弟弟子林家正雀とともに兄弟子2代目橘家文蔵一門に移籍した[5]1983年4月に正雀が先に真打に昇進した[5]

1984年9月に林家種平古今亭八朝とともに[要出典]真打に昇進し、3代目桂藤兵衛を襲名した[5]1986年3月、国立演芸場 花形若手演芸会新人賞金賞を『竹の水仙』で受賞[要出典]

人物

柳家さん遊4代目入船亭扇蔵とともに定期的な落語会を開いている[要出典]

受賞歴

演目

※二重カギ括弧は省略。

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脚注

参考文献

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