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林家正蔵
日本の落語家の名跡 ウィキペディアから
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林家 正蔵(はやしや しょうぞう、旧字体は林家正藏)は、江戸・東京の落語家の名跡。当代は9代目。
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初代から4代目までは林屋正藏、5代目から林家正蔵となった。江戸・林家の留め名(止め名)。
初代
経歴
1781年、和泉町新道生まれ[2]。本名は不明[2]、通称は下総屋正蔵[2]。幼い頃、札差峰村に奉公した後、1806年に初代三笑亭可楽の門下で楽我(楽賀)を名乗る[2]。そのほか、三笑亭可龍、三笑亭笑三、林屋正三と名乗った[2]。
1815年頃、可楽の門下から独立する[2]。1817年、両国の広小路の寄席を買い取り、「林家の席」と称した[2]。1835年、剃髪して正蔵坊と名乗り、本名を林泉と改めた[2]。
人物
林家の始祖。怪談噺の元祖と言われ、「怪談の正藏」の異名を取った。咄本『ますおとし』『笑話之林』『落咄笑富林』、合巻『尾尾屋於蝶三世談』『怪談桂の河浪』など、多数の著作が残る[2]。
4代目鶴屋南北と交遊し、『東海道四谷怪談』にも参画したと言われる[2]。また、荼毘にふした際、棺桶に仕込んであった花火が上がって、参列者を驚かせたという話が伝わる[2]。
弟子に正八(のちの初代人情亭錦紅)、林正(のちの2代目正蔵(「沢善正蔵」))、正助(のちの正月庵林蔵)、正太郎(のちの2代目鈴々舎馬風)、3代目正蔵(のちの2代目柳亭左楽)、春好(のちの花枝房圓馬)、初代花林花鏡(のちの花林郷の輔)らがいた。
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2代目
生没年未詳[3]。俗称を「朝蔵」[3]。「蒟蒻問答」「野晒し」の作者といわれる[3]。
もとは千住の焼き場の僧侶[3]。沢善坊・托善・沢全・濯禅など、表記はさだかではない[3]。母が初代正蔵の後妻となり、養子になる[3]。初名を林正[3]、1839年以降、2代目正藏を襲名[3]。弟弟子・林家林蔵門下の林家正三が上方に移り、上方・林家を興す(ただし、6代目林家正楽で途絶える)。
なお、文政年間に、湖月亭晴橋(のちに向南亭扇橘)が二代目林家正蔵を名乗っている[3]。ただし、初代正蔵の存命中に破門され、沢善が二代目正蔵を継承したため、湖月亭は代数から抹消されている[3]。
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4代目
本名は林屋 正蔵[4]。もとは歌舞伎役者で市川東次(中村藤次とも)と名乗った[4]。2代目正蔵の門下となり、1851年頃に林家上蔵を名乗る[4]。その後、正楽を経て、1865年頃に四代目正藏を襲名[4]。1874年頃に「二木屋」、1877年頃に「林家」とも名乗った[4]。1878年頃、隠居名として正翁を名乗る[4]。1879年7月2日没[4]。享年不詳[4]。
怪談の名手として知られ、麻布我善坊に居住したため、「我善坊の正蔵」と呼ばれた[4]。
弟子
5代目
本名は、吉本 庄三郎(よしもと しょうざぶろう)[5]。 1824年12月30日(文政7年11月11日)[6] - 1923年(大正12年)3月6日[6]。この代から「林家」となるが、江戸(東京)・林家の系統は五代目で途絶える。
経歴
三河国幡豆郡平坂湊(現在の愛知県西尾市平坂町)の生まれ[6]。家は代々農家を営んでいたが父・河原惣左衛門の代で零落したため、14歳で江戸に出て青山南町の酒屋「中伊勢屋」に奉公する[6]。のちに酒屋の四万へ奉公に出た[6]。奉公先の「四万」の贔屓の常連客が桂語楽という落語家で親しくなり[6]、語楽の紹介で二代目林屋正藏の弟子となる[6]。
1841年に正吉を名乗り、その後は正橋、正鶴、正鱗を名乗った[6]。1888年に五代目林家正蔵を襲名[6]。1912年2月、林家正童となった[6]。
晩年は沼津に居住し「沼津の師匠」と呼ばれる。1923年3月6日没。享年100。このため、通称は「百歳正蔵」[6]。辞世の句は「百とせを花に過ごして花乃山」[7]、墓所は住まいのあった近所の沼津市末広町真楽寺[7]。
正蔵一門のお家芸である怪談噺の名手だった[6]。落語家きっての色男で80代の時に娘が誕生し、娘は正蔵が99歳の時に沼津で「
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6代目
本名は、今西久吉[8]。1888年11月5日 - 1929年4月25日[8]。
二代目談洲楼燕枝に入門し、1909年3月に桂枝を名乗る[8]。1911年5月、四代目五明楼春輔を名乗る[8]。1915年2月、柳亭小燕路を名乗る[8]。1918年4月、六代目林家正蔵を襲名[8]。
六代目襲名以降、江戸(東京)・林家は柳派の傍流となる。7代目とは同じ柳派であるが、繋がりが薄い(6代目の師匠が7代目の大師匠に当たる)。
1924年以降、六代目春風亭柳枝らとともに「落語同好倶楽部」を結成し、噺家以外から岡鬼太郎(作家)、森暁紅(記者)、正岡容(演芸作家)、徳川夢声(活動弁士)などの著名人を招いて、噺を聞く会を開いた[8]。また、噺家の墓誌調査も行っている[8]。
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7代目
要約
視点
本名は、海老名 竹三郎(えびな たけざぶろう)[9]。海老名という苗字は母方の実家の名字で、海老名家は鉄砲奉行の同心の家と伝わる。旧姓は山崎である[10]。
東京の三ノ輪生まれ[9]。家業は穴蔵屋(角風呂専門の製造業)で[9]、天狗連でも活躍していた[9]。20歳の時に三代目神田伯山の講談を聴いて落語家になった[10]。はじめ立花亭で下働きを始める[10]。1919年1月に演芸速記記者であった今村次郎の紹介で、初代柳家三語楼に入門[9]、柳家三平を名乗る[9]。初高座は立花亭であった[10]、その後、内山うた(歌)と結婚[10]。
1924年3月に七代目柳家小三治を襲名して真打昇進[9]。1929年、東京落語協会(現落語協会)が三代目柳家小さんの末弟子 小ゑんに小三治を襲名させる意向を示し、柳家三語楼が名跡の返還を求めた[9]。しかし、小三治は承諾せず、小三治が二人いる状態となった[9]。結局、調停となり、1930年2月に7代目正蔵を襲名して事態を収拾した[9]。1930年、日本芸術協会(現:落語芸術協会)初代理事長を務める[9]。1934年に東宝に移籍して東宝名人会の専属になる。三代目三遊亭金馬、初代柳家権太楼とともに、人気三羽烏と呼ばれた[9]。
1949年、興行で青森県に行き、現地の風土病に罹患。それが原因となり、1949年10月26日、下谷病院にて死去。享年56(満55歳没)。墓所は足立区の真宗大谷派常福寺。法名は正恵院釈純讃良意居士。
落し噺、新作を得意とし、時事感覚に長けたギャグの達人であり、長男・初代林家三平の決めゼリフ「どうもすみません」や、額にゲンコツをかざす仕草(孫の9代目や、曾孫のたま平も行う)も、元来は7代目が高座で客いじりに使用したものである[9]。
怪談噺・芝居噺を得意とする歴代正蔵の中にあって、爆笑落語を通した異端児であった。SPレコードも多数残している。また極度の近眼であり、普段生活ではメガネを欠かせなかった。
戦時中、慰問に行くのが困難な激戦地の兵士にも落語を見られる様にと記録映画として撮影された正蔵の高座のフィルムが残されていた[10]。孫の九代目正蔵は、残されたフィルムで初めて祖父の高座の様子を目の当たりにして感激している[10]。
家族
七代目正蔵の家系(海老名家)は息子(初代三平)→孫(九代正蔵、二代三平兄弟)→曾孫(たま平、ぽん平兄弟)と四代に渡って続く落語家一家となっている。
家系図
七代目 林家正蔵 | 中根音吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初代 林家三平 | 海老名香葉子 | 中根喜三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
峰竜太 | 海老名美どり | 泰葉 | 九代目 林家正蔵 | 二代目 林家三平 | 国分佐智子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
下嶋兄 | 林家たま平 | 林家ぽん平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弟子
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名跡の歴史
要約
視点
![]() | この節には複数の問題があります。 |
前述の通り、元々の「林家正蔵」の系統は5代目を以って断絶しており、以後はその時々の落語家の名跡争いなど問題が影響となる形で、「都合の良い名跡」として振り回される運命にあった。
7代目が名跡を継承してしばらくして、7代目と一時期名跡が競合状態にあった8代目柳家小三治は落語家を廃業し、協会事務員となっていた。柳家一門の総帥、4代目柳家小さんは、8代目の早い廃業で空き名跡となった小三治を、7代目柳家小きんへと襲名させた。
1947年に4代目小さんが亡くなると、9代目柳家小三治となっていた7代目小きんと、5代目蝶花楼馬楽は、元兄弟弟子として「小さん」の襲名を争うが、8代目桂文楽の強力な後ろ盾を得ていた9代目小三治が勝利し、5代目柳家小さんとなった。
対する5代目蝶花楼馬楽が手に入れたのが、この襲名劇の前年に7代目が死去し空き名跡となっていた林家正蔵である。従って、7代目と8代目は、柳派の大名跡「小さん」と、その出世名跡「小三治」が関わる名跡争いにより、「林家正蔵」を同門異系譜の落語家遺族から手に入れるという、類似した境遇を歩んだ。
しかしながら7代目と8代目との間で異なったのは、7代目には現役の落語家である長男・初代三平がおり、遺族(特に7代目の妻・初代三平の母)が三平の正蔵襲名を強く望んでいたことである。当時、初代三平は修行年数が2年と短かったためとても正蔵を襲名できる状態になかったものの、結局8代目は、7代目遺族から「一代限り」として「貸与」の形で『正蔵』の名跡を譲り受け、襲名した。
8代目は約束を守り、弟子には一部を除き「春風亭」など林家とは異なる亭号を名乗らせ、将来的に三平に正蔵の9代目を譲る予定でいた。初代三平の母は初代三平の真打昇進に伴い名跡返還を要求。これに対し、8代目は尊敬する三遊一朝の名を襲名し、初代三平に正蔵の名跡を譲る予定であった。しかし初代三平自身は8代目を立て、「師匠の宜しいまでお名乗り下さい」と説得。結局、初代三平は前座名のまま1958年に真打に昇進した。
初代三平にはその後、5代目小さんより奇しくも「柳家小三治」の襲名を提案されたこともあったが、結局「三平」を維持し、単なる前座名を一代で育て上げた。その後、初代三平は8代目に先立つ形で1980年9月20日に54歳で死去。
8代目は7代目・三平遺族に名跡を「返還」し、以後はその死去まで「林家彦六」を名乗った。
なお、初代三平の死後に真打に昇進した8代目の弟子は、林家の亭号を名乗ったままであった。この他、三平から気に入られていた林家木久扇も、亭号を維持している。
一方、当初8代目が襲名するとしながらも結局されなかった「一朝」の名は、8代目の孫弟子が「春風亭一朝」として引き継いだ。
また、前述の通り9代目を継ぐはずの初代三平が8代目に先立って亡くなってしまったので、初代三平の長男の林家こぶ平が初代三平の代わりとして2005年に『九代目林家正蔵』を襲名した。
初代三平の長男である9代目の襲名に際して、また、初代三平から9代目の育成を引き継いだ林家こん平は病身にあったため、8代目の弟子である木久扇と、同じく孫弟子で義兄であった小朝が、9代目の後見役となっている。そのためかつての7代目遺族と8代目の関係はともかく、現在の9代目一門(海老名家)と8代目一門(彦六一門)の関係は比較的良好である。
しかし、2018年に8代目の弟子で、8代目没後に落語協会を離脱していた5代目三遊亭圓楽の門下に移籍した三遊亭好楽が自身の弟子である三遊亭好の助の真打昇進を期に8代目の門下時代に自身が名乗っていた林家九蔵を襲名させる件で、所属する五代目円楽一門会及び8代目の遺族や8代目門下の兄弟子の林家木久扇からは了解を取り付けていたものの、9代目及び9代目の母(初代三平夫人)の海老名香葉子から「落語協会から離れて三遊亭に移った方(五代目円楽一門)が林家を名乗るのはいかがなものか」と物言いが付いて、好の助の九蔵襲名が白紙になるトラブルが発生している。ただし、好楽はその後海老名家での9代目一門の忘年会にゲスト参加していたりしているので、和解はしている。
また、初代三平の師である7代目橘家圓蔵は元々8代目文楽と7代目の門下を行き来している。この圓蔵の名跡は、元々8代目の2番目の師匠が名乗ったものであり、この師の叔父弟子が三遊一朝である。8代目が小さん門下に移ったのは師匠の死によるもので、7代目圓蔵自体は圓蔵の名跡の元の所属先である三遊派とは無関係であった。
元々三遊派である圓蔵、そして8代目が正蔵を名乗る原因となった5代目小さん襲名問題、これら全ての問題の源流として挙げられるのは8代目桂文楽その人である。彼の協会内における卓越した「政治力」こそが、今やこれらの名跡が揃って柳派に属する遠因となっている。
今となっては、正蔵の元の名がどこに属するかについては完全に曖昧になってしまった。
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上方の林家
脚注
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