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桑原楽之

日本のサッカー選手 ウィキペディアから

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桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - 2017年3月1日[3])は、広島県広島市白島(現中区)出身[4]サッカー選手。実兄は桑原弘之1968年メキシコシティオリンピック銅メダリスト[5]

概要 桑原 楽之, 名前 ...
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来歴

8人兄弟で男は弘之と楽之の二人だけ[4]1960年代の日本サッカーのメッカ・広島に生まれ、幼少期からサッカーに親しむ[4]。広大付属小、広大付属中学の抽選をいずれも落ちて白島小、幟町中学に進む[4]。白島小の隣りに広島市立基町高等学校があり、5年生の時に渡辺正佐伯博司がプレーしていて、楽之はいのまにか同校でボール拾いを始める。入学した幟町中学にはサッカー部がなかったが、桑原を中心に創部[4]。実兄の弘之がコーチを勤めた。

1959年、3度目の正直で広大付属高校に入学。付属中学以外の中学からの入学者は、がり勉タイプと決まっていたが、楽之がサッカーに熱中するので担任がびっくりしたという逸話が残る[4]。1年からすぐレギュラーとなり2年の時、エースフォワードとして桑田隆幸野村尊敬小城得達溝手顕正船本幸路らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体は準優勝、3年時はベスト8。AFCユース選手権1961の日本代表にも小城と共に選出された[4]

中央大学に進学してサッカー部に入部して1年からレギュラー。1962年、小城や同郷の野村六彦岡光龍三らと長沼健宮本征勝川淵三郎らを擁して天皇杯3連覇を狙った古河電工を決勝で破り中大に初優勝をもたらした。大学単独チームでの優勝は四半世紀ぶりであった。

1965年中大を卒業後、東洋工業(現マツダ)へ入社、蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島F.C)に入団。日本サッカーリーグ(JSL)初年度から主力フォワードとして、実兄の弘之や共に東洋入りした小城、桑田、小沢通宏石井義信今西和男松本育夫らとリーグ4連覇を含む5回の優勝と3度の天皇杯制覇に貢献した。FWとしては足の速い方ではなかったが、天性のバネと鋭い突破力を持ち[4] ゴール前でアクロバティックなプレーを得意とするセンターフォワード(CF)だった。また浮き球の処理も上手かった[6]。JSL初年度で最大のライバルだった八幡製鉄との一回戦、試合終了30秒前に劇的ゴールを挙げ、引き分けに持ち込んだ殊勲者でもある[4]。東洋工業では94試合に出場して53得点、21アシストを記録した[1]

1966年7月のドネツク選抜戦でサッカー日本代表として初出場[2]。1968年のメキシコシティ五輪の日本代表にも選出され、1次リーグ2戦目の対ブラジル戦では、ブラジルのセンターバックが巨漢のため、釜本邦茂HBに下げヘディングの強い桑原がFWとして先発出場、桑原が競り合ってこぼれ球を釜本が狙うという作戦を取った。

2017年3月1日12時20分、広島市内の病院で肺炎のため死去[7][1]

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所属クラブ

個人成績

さらに見る 国内大会個人成績, 年度 ...

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 12試合 5得点(1966-1970)
さらに見る 日本代表, 国際Aマッチ ...

出場

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得点数

さらに見る #, 年月日 ...
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参考文献

関連項目

外部リンク

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