トップQs
タイムライン
チャット
視点
桝嘉一
日本の野球選手 (1908-1981) ウィキペディアから
Remove ads
桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日[1] - 1981年12月18日[要出典])は、京都府京都市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。
Remove ads
来歴・人物
元はテニス選手で旧制同志社中学校、同志社高等商業学校を経て、明治大学に進む。東京六大学リーグ通算88試合出場、296打数70安打、打率.236、0本塁打、34打点。1936年に名古屋軍に入団。
1937年と1943年には監督 、1941年から1942年までは助監督も務めた(すべて選手兼任)。1944年は監督業を三宅大輔に譲って選手専任となるが、出場機会は無く、同年限りで現役引退。戦後、一時期審判員を務め、その後、社会人日本鋼管の野球部監督に就任(プロ野球人名事典1999)し、1981年12月18日、死去。満73歳没。
また、職業野球黎明期は登録選手の人数の関連で監督が背番号「30」を背負うことが多かったが、枡は昭和12年の1年限りながら、戦前の職業野球で唯一、背番号「50」を背負っていた。
詳細情報
年度別打撃成績
タイトル
- 最高出塁率(当時連盟表彰なし):1回(1938年春)
背番号
- 23 (1936年)
- 50 (1937年)
- 25 (1938年 - 1942年)
- 30 (1943年)
通算監督成績
- 189試合 82勝97敗10分 勝率.458
Remove ads
脚注
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads