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武井守正

日本の政治家 ウィキペディアから

武井守正
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武井 守正(たけい もりまさ、天保13年3月25日1842年5月5日) - 1926年大正15年)12月4日)は日本武士姫路藩士)、政治家実業家幼名寅三。鳥取県再置後第2代知事男爵。作曲家武井守成の父。

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武井守正

経歴

父は姫路藩士・武井領八。藩校好古堂に学び安政4年(1857年)専業生に抜擢され、京都の宮原潜叟儒学を、大坂の萩原広道国学を学ぶ。

帰藩後好古堂授読を命ぜられたが、勤王派に加盟、国事に奔走。 1864年(元治元年)に脱藩を企てたことが露見して永牢の身となる。王政復古を受けて約5年後に釈放、自宅謹慎となる[1]。その後、新政府に出仕。白石県権知事、平県権令などを歴任、内務省・農商務省各局長などを経て1888年明治21年)10月鳥取県知事となり、1891年(明治24年)4月まで在任。明治25年(1892年)1月21日石川県知事に任命されたが、2月2日依願免官となる。明治24年(1891年)12月22日、貴族院勅選議員に任ぜられ[2]、1923年(大正12年)7月12日、枢密顧問官に転じ[3]、同月23日に貴族院議員を辞職した[4]

1893年(明治26年)から実業界に転じ帝国海上保険、日本商業銀行、明治商業銀行などを創立し役員となった。1907年(明治40年)男爵を授けられた。1909年(明治42年)11月21日、錦鶏間祗候に任じられた[5]

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栄典

位階
勲章等

系譜

武井家
  
武井領八━━武井守正━━武井守成
  • 父・武井領八 - 姫路藩士
  • 妻・ふじ - 住友喜三郎長女[13]
  • 次男・武井守成
  • 娘・和(1877年生) - 牧野鑑造(早稲田大学教授)の妻[13]
  • 娘・とし(1881年生) - 箕田長三郞の妻[14]。長三郞は、横浜市会議員、横浜七十四銀行副頭取も務めた横浜の大手美術商・箕田長次郞の子で家業を継いだ[15]
  • 娘・みづゑ(1886年生) - 小幡酉吉の妻[13]
  • 娘・富子(1904年生) - 女子学習院卒。北畠義郎の妻[13]

その他

  • 明治11年(1878年竹橋事件を探知したのは有名。
  • 鳥取県民に好感をもたれ、離任に際し県民の留任運動が起きている。
  • 長年にわたって安田財閥の顧問的役割を務めた。1921年には安田善次郎の横死によってリーダー不在となった安田財閥に結城豊太郎(日銀大阪支店長)を送り込むことにも一役買った[16]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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