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武林無想庵
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武林 無想庵(たけばやし むそうあん、1880年2月23日 - 1962年3月27日)は、日本の小説家、翻訳家。本名は磐雄(いわお)、のちに盛一(せいいち)。
略歴
現在の北海道札幌市中央区に生まれる。大通西1丁目の丸井今井札幌大通館前に生誕の碑がある。父は写真師の三島常磐。幼少時に実父の師匠にあたる東京の写真師、武林盛一の養子となる。東京府立一中・一高を経て東京帝国大学英文科に進学、後に国文科に転籍した。在学中より小山内薫、川田順らと雑誌「七人」を創刊し、アルフォンス・ドーデ『サフォ』の翻訳で注目される。柳田國男らの竜土会に参加。大学中退後に京都新聞社員となるも、その後破滅的な耽溺生活に入り、放浪を繰り返す。
1914年、ミハイル・アルツィバーシェフ『サーニン』を翻訳出版。ダダイストの辻潤らと親交を持つ。虚無主義と性愛讃歌に満ちた作品を発表し、自らもダダイストの一人に数えられるようになる[1]。
1920年、二番目の妻となる中平文子(後に宮田文子)と結婚後、渡欧。フランスで娘イヴォンヌが生まれる。滞欧生活は前後5回17年に及んだ[2]。帰国後は日本の現実と焦点が合わず不遇であった。
1933年に緑内障から右目を失明し隻眼となり、1943年には左目も失明した[3]。三番目の妻、波多朝子の筆記・編纂による会員制の個人誌『むさうあん物語』(全44冊別巻3冊・1957年-1969年、平成期に記録文化社で書籍化)は、無想庵没後も刊行が続いた。享年82。墓所は雑司ヶ谷霊園。
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家族
エピソード
1926年、妻文子が交際のあった男に発砲される事件があり、世の話題となった。文子とは1921年に田山花袋の媒酌で結婚して渡仏し、パリ滞在中に娘イヴォンヌをもうけ、一旦帰国後再び夫婦で渡仏した[5]。無想庵帰国後も文子はパリに留まり、ロンドンの日本料理店「湖月」の主人・川村泉と懇ろとなりパリに支店を開いたが、金銭的ないざこざからニースのホテルで川村から撃たれた[5]。幸い軽傷で済んだ。このころ、文子は財産家の婚約者の金で留学していた池本喜三夫(のちに東京農業大学教授)などとも関係があり、川村はそうした文子の奔放さに疲労していた[6]。その後文子は武林と離婚し、ベルギー在住の貿易商・宮田耕三と再婚して宮田文子となった[7]。
1928年、かねてより親交のあった辻潤、辻まこと親子とパリにて交流を持つ。武林と文子の娘イヴォンヌ(1921年生)は知人のフランス人夫婦に預けられて南仏で育ったが、十代半ばに自殺未遂を繰り返したことから日本に帰国させ、後に辻まことの最初の妻となった[8]。イヴォンヌは辻との間に野生(のぶ、1940年生)と維生(いぶ、1944年生)という二人の娘をもうけたが、辻と離婚し、のちに新聞記者と再婚、母・文子が暮らすベルギーに移ったが再び離婚し、母の仕事を手伝う中、45歳で急死した[8]。イヴォンヌの娘・野生は2歳で竹久夢二の次男・不二彦夫婦の養女となって北海道で育ち、造園家と結婚、夫の仕事の関係でコロンビアに移り、コロンビア国立大学芸術学部美術科で絵を学んで画家となり、ボゴタ在住[9][10]。その妹の維生は実父である辻の異父妹・菅沼幸子(大杉栄と伊藤野枝の次女で旧名エマ、菅沼五郎妻)の養女となったが、8歳で実母に伴いベルギーに移り、のち宝塚歌劇団に入った[8]。
作品
著書
翻訳
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関連人物
脚注
参考文献
外部リンク
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