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残念さん

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残念さん(ざんねんさん)とは、幕末維新期の人物を信仰の対象にした流行神の名前である。主に西日本で見られた[1]

岡本真生は、兵庫県尼崎市奈良県東吉野村広島県廿日市市などの事例を「残念さん」として挙げ、「いずれも幕末維新期に無念の死を遂げた人々が神として祀られたもの」と述べる[2]。また残念さんは、突発的に流行して一時的に熱狂的な信仰を集める流行神の一種であるとする[2]

本項では幕末維新期に発生した残念さんについて述べるとともに、幕末維新期の人物以外に由来を持ち、同じく「残念さん」と呼ばれる事例についても取り上げる。

兵庫県尼崎市の残念さん

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残念さんの墓

長州藩士山本文之助

兵庫県尼崎市に「残念さんの墓」がある[3][4]。場所は同市杭瀬南新町4丁目にある杭瀬東墓地内で[4]、埋葬された人物は、長州藩士の山本文之助(は鑑光[5])である[3][4]

元治元年(1864年)7月19日、京都で起きた禁門の変で長州軍は幕府軍に敗れ、長州藩士らは逃走を試みた[6]。山本文之助は尼崎大物に逃れてきたところを幕府方の尼崎藩に捕縛され[7]、翌7月20日(または19日[8])に会所で自害した[9]。また、幕吏兵に追い詰められて民家の厠に入り、「嗚呼残念」と大声を上げて自刃したともいう[10]。その後、文之助は尼崎城下町北東の共同墓地「東墓」に無名で埋葬された[11]

それから7か月後の元治2年(慶応元年、1865年)2月の時点で、文之助の墓に一心に祈願すればどのような大病も治るという話が大坂にまで聞こえていたという(『扇屋真助日誌』)[12]。その年の5月中頃には大坂の町々から参詣しない人はいないといわれるようになり、墓に埋葬された「侍」は「残念様」と名付けられていた(『扇屋真助日誌』)[12]。また、病気治癒だけでなく「残念なること」を願えばそれが叶うとされていた(『日加栄』)[13]。『扇屋真助日誌』には、文之助が書き置きを残したという話も記されており、そこには「わずか4万石ほどの大名に捕まったのは残念で口惜しい。口惜しいことを言えば一つの願いだけは叶えてやろう」とあったとされる[14]

大坂への波及

こうした事態を受け、5月17日[15]大坂町奉行所が残念さんへの参詣を禁止すると、人々はそれに代わる参詣場所を見出す[16]。この前年の元治元年(1864年)2月に大坂で切腹した長州藩士2人がいるが、元治2年(1865年)5月24日にはその2人が切腹した南御堂や葬られた千日墓所に参詣者が訪れるようになっており、5月27日には、長州藩邸やそこに植えられた柳へ人々が参詣している様子が記録されている(『扇屋真助日誌』)[13]

元治元年(1864年)2月に切腹した2人の長州藩士は水井精一と山本誠一郎といい、最下級の武士だった[17]。元治元年2月12日、大坂で繰綿を買い集めた薩摩商船が、長州の上関に停泊した際に長州藩諸隊の上関義勇隊士に襲撃され、薩州人の大谷仲之進が殺害される事件が起きている[17]。当時、薩摩藩ヨーロッパに輸出するため綿花やその他油などの日用品を買い集めて、それらの価格高騰を招いており、民衆から悪評を得ていた[18]。上関義勇隊士の水井と山本は殺害した大谷の首を持って大坂に行くと、2月25日から26日未明の間に、大坂本願寺南御堂[19]門外にて梟首と立札を掲げたその横で切腹した[20]。立札には、薩摩藩の外国貿易が、上は天皇を悩ませ下は民衆を物価高値で困らせているため、外国貿易に関わる者への戒めのため行ったとの旨が書かれており[21]、また、水井・山本の2人が「赤心」のために切腹したとのことが記されていた[22]

外国貿易関係者の暗殺・梟首というテロルは幕末において珍しいものではなかったが、暗殺者が名乗り出て自害するというのは異例のことだった[23]。この翌日に大坂から出された書状には「古今未曽有の大忠臣と奉存候」とあり、3月6日に出された在京の長州藩遊撃隊士の書状には「京数万人」が声を上げて感泣したと書かれている[24]。長州藩士のものと思われる同年3月付の書状には、この2人を「申合せ神ニ祭る」という動きが民衆の間にあったことが記されており、これが翌元治2年5月の参詣につながったと考えられる[24][注釈 1]

井上勝生はこの2人について「流行神『残念さん』になっ」たと述べている[33]。ただし、2人が自害した南御堂や千日墓所への参詣は『扇屋真助日誌』にしか見られず、あまり盛んではなかった可能性がある[34]。その場合、この2人については流行神ではなかったと考えることができる[34]

また、参詣対象とされた大坂江戸堀三丁目の長州屋敷は禁門の変の直後に破壊されているが、その際に「残念残念」と叫んで切腹した長州藩士がいたという話がある[35]。屋敷跡の柳の木にはその藩士の霊が宿ったといわれ[35]、また屋敷内にあった稲荷が柳に取り憑いたともいわれている[15]。この柳の葉を煎じて飲めばどんな病気も治るとされ[36]、1本のみならず4、5本の柳が丸坊主にされたという[37]。この柳は「無念柳」[30][35]とも「残念さん柳」とも呼ばれ[38]、尼崎の残念さんと同様の流行神となった[39]

元治2年5月29日、大坂町奉行から参詣禁止の触れが出され[40]、柳の木は根から掘り起こされて捨てられることになった[41]。これにより、この騒ぎは落ち着いた[41]

流行の背景

元治元年1月に大坂薩摩藩邸の木場伝内から大久保利通に出された書簡によると、外国貿易を行う薩摩藩に対して悪評が立っていたという[42]。民衆は物価高騰の原因が外国貿易にあると考えており[43]攘夷を行う長州藩に対して共感や同情を示すようになっていった[44]

元治元年7月の禁門の変で長州軍が敗れた際、「正義一図(途)」であるとして長州藩は人気があった(『鍾奇斎近世風聞雑記』)[45]。変後に大坂の長州屋敷が取り壊された際は、長州藩に同情が寄せられている[46]。また、残念さんが流行った元治2年5月は幕府が第二次長州征伐を強行しようとしていた時期であり、それに伴う負担から民衆は幕府に対し不満を持ち、長州藩に期待を抱いたとされる[47]

こうした民衆の心情を背景として、尼崎の残念さんや無念柳などへの参詣という行動が起こってきた[48]

なお、これらの民衆の行動について、『尼崎市史』は「反幕派の策動・扇動もあって起きた面もあろう」と記す[49]。先述の木場伝内書簡には、長州の浪士たちが薩摩藩への悪評につながる風聞を流していたということが記されている[42]。また元治元年2月の南御堂における切腹事件について、長州藩尊攘派指導部が民衆の支持を得るために作為的に行ったものであると井上勝生は論じている[50]

明治以降の「残念さんの墓」

明治期以降、山本文之助の墓は名所化していく[51]

明治期[51]には墓の周辺に屋台店や茶店、夜店などが出ていた[52]。多くの人が参詣し、病気快癒から色事まで、様々な願掛けが行われた[53]。残念さんに関する講も作られ、集団参詣も多かったという[52]

1916年大正5年)、大日本紡績が東墓周辺の土地を買収することとなる[54]。文之助の墓を建てた長尾家は、先祖の墓とともに兵庫県川辺郡立花村字三反田(現在の尼崎市三反田町付近[55])の延光寺に移そうとしたが、残念さんの墓は名所の1つで社会的存在といえるものだからこの地に残してはどうかという話が墓地の管理者や小田村会議員から出て、明徳寺支坊墓地(杭瀬字見立新田[56])への移転に留められた[57]

1922年(大正11年)、残念さんの墓が墓地の北隅にあり、参詣者が見つけにくかったことから、墓地を管理する住職が墓地の入口付近へと移転させた[58]1934年昭和9年)、室戸台風により墓碑が倒れたが、3週間余りで修築された[59]

昭和初期には受験の神様として有名になっており、御札をもらうため多くの参詣者が訪れたという[59]。2018年現在、かつての明徳寺支坊墓地は主に尼崎市の杭瀬地区が管理するようになっており、墓地の会所では昭和初期の御札と同様に「残念さん御守」が販売されている[60]

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奈良県東吉野村の残念大将

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「吉村寅太郎原瘞處」碑(石ノ本墓地)[61]

信仰の経緯

奈良県吉野郡東吉野村に墓地のある吉村寅太郎も「残念さん」とされる[61]。寅太郎は土佐脱藩士で、天誅組の3総裁の1人である[61]

文久3年(1863年)8月17日に大和国五條代官所を襲撃した天誅組は、8月18日の政変により朝敵とされた[61]十津川村から東吉野村に進軍したところで幕府勢の追討を受け、寅太郎を含む多くの者が討たれ、また捕縛された[61]。寅太郎が死去したのは9月27日で[62]、その墓は東吉野村の2か所にある[61]。一つは小川地区(旧・鷲家口)にある共同墓地「明治谷(メョウジ谷[63])墓地」で、もう一つは小川地区と鷲家地区の境の大岩前にある「石ノ本墓地」である[61]

どちらの墓かは不明だが、吉村寅太郎の墓へは多くの参詣者が訪れた[61]。『扇屋真助日誌』によると、寅太郎はどの病気でも一つは治してくれるとの遺言を残して自害し、寅太郎が討死した場所にある石碑に願掛けすれば大病も全快するとされた[64]。『五條北之町順番帳』には、寅太郎の墓が「天誅吉村大神儀」として奉じられ、願掛けすると御利益があるとしておびただしい数の参詣者が集まったとあり、役所がそれを禁止したものの、参詣者はさらに増えたということが記されている[65]

寅太郎の最期については諸説ある[66]。その中に、休息と握り飯を求めた駕籠茶屋の老媼に密告され[65]、幕府側の藤堂藩兵に射殺されたというものがある[67]。老媼はに掛かって[65]、やがて死去し[68]、寅太郎の祟りとされた[69]。また、寅太郎は瘧の神様であるとして、祈願すると霊験があるとされるようになった[65]。寅太郎の最後の言葉は「残念」とされ、そのため「残念大将」と呼ばれ[70]、崇められた[65]

その後、寅太郎の遺骨は石ノ本の墓地から明治谷の山上に移され、小川の宝泉寺に位牌が置かれて法要が行われると「残念大将」はますます流行った[65]。これに対し幕府側の五条代官は寅太郎の碑と那須信吾の墓を川に投げ捨て、碑を建てた村民約20人を投獄したという[65]。地元の人々は代官の命とのことで川に捨てられた墓碑に手を付けられずにいたが、ある時やってた西国の浪士・高木左京がこれを聞き、自分が責任を持つとして川から墓碑を引き上げたと伝わる[71]。明治谷墓地には角が取れて丸くなった寅太郎の碑があるが、これが原因でそうなったとされる[71]

寅太郎に関して御利益があるとされたのは墓だけではなかった[65]。彼が高取城攻めで負傷した際に身に着けていた血染めの肌襦袢も御利益があるとされ、寅太郎の死後、それを掘り起こした者が多数いたとされる[65]

その後の展開

1891年(明治24年)には天誅組記念碑建設創立委員会が設置されるなど、天誅組の顕彰活動が盛んになる[72]。その中で「残念さん」と呼ばれていた吉村寅太郎は「天誅さん」と呼ばれるようになり、また「天誅さん」は天誅組義士全体を指す言葉としても使われるようになってくる[72]。そうした中で、民間信仰の対象としての性格は薄れていった[72]

1895年(明治28年)、「吉村寅太郎原瘞處」の碑が建てられ、宝泉寺で33回忌の法要が行われた[73]1912年(大正元年)には天誅義士50年祭が行われ、その後も行政団体による慰霊祭が続けられている[73]1976年(昭和51年)、東吉野村は天誅組の乱を縁として[74]高知県梼原町と友好町村の関係を結び[75]1981年(昭和56年)[74]には高知県東津野村と姉妹村の関係を[75]1986年(昭和61年)には大阪府堺市と友好都市の関係を結んでいる[74]

1989年に発表された齋藤純の聞き取り調査を伴う論考には、明治生まれの人々からの「吉村さん」を祀ったという話や「天誅さん」が流行ったという話などが収録されている[76]。吉村寅太郎個人に着目した流行神である「残念さん」という呼称がみられないことから、天誅組全体が顕彰される中で、寅太郎が願掛けの対象になっていた事実は忘れられたものと推測される[77]

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広島県廿日市市の残念社

広島県廿日市市には「残念社」があり[78]、そこに祀られる依田伴蔵が「残念さん」とされている[78][79]

慶応2年(1866年)6月に起きた第二次長州征伐における戦場の1つ、芸州口では幕府側と長州藩側が膠着状態となっていた[80]。7月9日[81][82]、幕府側から長州側へ馬に乗った使者が派遣されたが、彼は長州兵に狙撃され、「残念」と叫んで死亡した[79][81][82]。この使者が宮津藩士の依田伴蔵であった[79][81][82]

依田の墓は「残念様」や「残念さん」と呼ばれ、諸病が全快するとして信仰された[82]。その後、大頭神社の宮司により鳥居が建てられて社になると、「残念社」と呼ばれることが多くなる[82]。大頭神社は厳島神社摂社で、その境内には依田伴蔵の子で陸軍中将依田広太郎が揮毫した、日清日露戦勝記念碑「忠魂碑」が建てられている[51]

第二次世界大戦前後には残念社周辺に芝居小屋が建てられるなどしており、その頃にも参詣すると病気が治るなどの御利益があるといわれている[51]

1966年(昭和41年)、依田伴蔵の没後100年を記念して、依田神社が創建された[77]1972年(昭和47年)、残念社と依田神社の鳥居が新たに建てられ、1990年平成2年)、広島岩国道路が開通したのと同時に、残念社に通じる「ざんねんさん橋」が完成した[77]

当初は民間信仰的要素の強い流行神として展開した廿日市市の残念さんだったが、鳥居が建てられることで神道的要素が加わり[51]、また地元誌『民協ニュース』によると、依田神社創建時に「平和の守護神として鎮座されたいとの祈りが捧げられ」るなど、その性格は変化してきた[83]。2018年時点で、残念社や依田神社、大頭神社において、依田伴蔵に関する祭祀は恒常的に行われている[84]

大阪府大阪市の残念塚

大阪城の玉造口付近(大阪市中央区[85])に、慶応4年(1868年)7月に「薩州長州」により建てられた「城中焼亡埋骨墳」という石碑があり、これが「残念塚」や「残念さん」と呼ばれた[86]

慶応4年(1868年)1月3日に始まる鳥羽・伏見の戦いに幕府軍は敗れ、1月9日、幕府目付妻木頼矩らが長州藩の佐々木二郎四郎らへ大阪城内で応対している[86][87]。その最中、本丸の台所で火災が発生し、大阪城はほぼ全焼することとなった[86][88]。火災の原因は諸説あるが、その中に幕臣の飯塚練作らが放火し、切腹したという説がある[86]。彼らは薩長の武士たちにより手厚く葬られ、その墓は「残念塚」「残念さん」と呼ばれ、どんな願い事も叶えてくれる神として信仰の対象になったといわれる[86]

なお、城中焼亡埋骨墳については、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で戦死した豊臣軍将兵の遺骸を焼いてその骨を埋めたものともいわれ[89]、豊臣兵らが「残念残念」と連呼しながら城を枕に討死したことに因んで、「残念さん」と呼ばれるようになったとされる[89][90]。この場合、薩長兵は豊臣軍将兵の遺骨を埋め直して、石碑を建てたものと見なされる[90]

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幕末維新期に発生したその他の事例

元治元年(1864年)7月19日に起きた禁門の変で長州勢は敗れ[91]、同月21日[91]真木和泉ら17人は天王山京都府乙訓郡大山崎町[92])の山腹で自決した[93]。真木らの亡骸が幕吏によって宝寺の塔前に埋められたところ、「残念さん」と呼ばれて祀られるようになり、多くの人々が墓へとやってきた[94]。このため幕吏は真木らの亡骸を掘り出して竹林に捨てたという[94]。その後、明治元年(1868年)、真木の子の佐忠らが竹林から遺骨を集め、天王山山腹に改葬して石碑を築いた[94]。この墓碑も「残念さん」(「天王山の残念さん」)と呼ばれている[93]

慶応4年(明治元年、1868年)2月、の警備に当たっていた土佐藩の兵士とフランス水兵が衝突し、フランス側に11人の死者が出る事件が起きた(堺事件[95]。土佐藩士20人の処刑が決定し、堺の妙国寺で彼らの切腹が行われたが、11人が腹を切ったところで中止となった[96]。11人の遺体は甕に入れられて[97]、妙国寺北隣の宝珠院に埋葬され[98]、使われなかった9個の甕も宝珠院に運ばれて、堂後の軒下に置かれた[99]。すると切腹の翌日から宝珠院へは参詣者が殺到するようになる[99]。9個の空甕はやがて運気が強くなるものとされるようになり、それにあやかろうと代わる代わる甕に身を入れる人々で大混雑となった[99]。また、切腹した11人は恨みを呑んで死んだのは残念だとして「ざんねん様」と呼ばれるようになり、多くの人が参詣したという[100]

広島県尾道市大山寺にも「残念さん」と呼ばれる墓があった[101][102]。埋葬されたのは長州藩兵の3人で、この3人は明治維新の頃、杉孫七郎率いる長州兵1,500人が福山城を攻撃した際に出た戦死者だという[101][102]

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幕末維新期以外に由来する残念さん

幕末維新期の人物以外に由来を持つとされる「残念さん」も見られる。

兵庫県湊川(神戸市兵庫区[103])には、元禄5年(1692年)に徳川光圀によって建てられた楠木正成の墓碑があり、その側に「残念さん」という祠があった[104]湊川合戦で自害した楠木正成の墓は、太閤検地の頃には既にその場所にあったが、光圀による墓碑建立の7年前、楠正信という人物が時世を嘆き正成の墓の前で自刃したとされる[104]。「残念さん」の祠は、その人物の無念さを鎮めるため建てられたものと推測されている[104]。また、地元の人々は楠木正成を指して「残念さん」と呼んだともいう[105]

垂仁天皇の頃の人物とされる当麻蹴速も「残念さん」と呼ばれるという[106]。蹴速は天皇の命で野見の宿禰と力比べをし、腰の骨を折られて敗れてしまう[106]。そのうえ、蹴速の土地は取り上げられて、宿禰へと与えられる[106]。蹴速の墓がある奈良県の当麻(葛城市[107][108])の人々は「さぞかし無念残念でしょう」として、蹴速を「残念さん」と呼び、信仰しているという[106]

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脚注

参考文献

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