トップQs
タイムライン
チャット
視点

毛利匡芳

ウィキペディアから

Remove ads

毛利 匡芳(もうり まさよし)は、江戸時代中期の大名長門国長府藩10代藩主。官位従五位下甲斐守

概要 凡例毛利 匡芳, 時代 ...

略歴

長州藩毛利重就(元は長府藩8代藩主・毛利匡敬)の五男として江戸にて誕生する。幼名は政次郎。は始め匡豊、のち匡芳に改めた。

明和6年(1769年)、兄で先代藩主の毛利匡満が嗣子なくして若死にしたため、跡を継いだ。安永3年(1774年)12月に叙任する。天明3年(1783年)5月、父・重就による幕府への嘆願で城主格となった。節倹条例や奢侈禁止令を出して藩財政を再建し、さらに文武発展を目指して藩校敬業館を開いた。

寛政4年(1792年)6月18日、江戸にて死去し、跡を長男の元義が継いだ。法号は功篤院殿哲嵓良壽大居士。墓所は東京都港区高輪泉岳寺山口県下関市長府功山寺

系譜

  • 父:毛利重就(1725年 - 1789年)
  • 母:留楚(? - 1810年) - 瑞順院、武藤氏
  • 正室:宝珠院(1761年 - 1790年) - 右大臣西園寺賞季の娘
  • 継室:鏡貞院(? - 1836年) - 西園寺賞季の娘
  • 側室:吉浦
    • 次女:数子(1792年 - 1793年)

脚注

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads