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毛利時親
鎌倉時代末期から南北朝時代の武士 (?-1341) ウィキペディアから
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毛利 時親(もうり ときちか)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で安芸毛利氏の当主。毛利経光の四男[1]。大江広元の曾孫にあたる。戦国時代に中国路の覇者となる安芸毛利氏の祖である。
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生涯
文永7年(1270年)7月15日、父より越後佐橋荘南条、安芸吉田荘の地頭職を譲り受ける[1][6][注釈 1]。六波羅評定衆を務め、河内に邸宅を持った。当時の執権・北条時宗の偏諱を受けて時親と名乗ったとみられるが、この時期の活動については不詳である。
元徳2年(1330年)、安芸吉田荘の地頭職を孫の親衡に譲ると[7]、元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府滅亡後に隠居するが、南北朝の争乱が勃発すると、子の貞親、孫の親衡は南朝方に付き、越後の毛利領を拠点に活動したため、安芸の地頭職を取り上げられ苦境に立たされた。しかし、時親は曾孫の元春(師親)を北朝方の足利尊氏に味方させ、自らは建武3年(1336年)に安芸吉田荘に下向し[1]、貞親、親衡の北朝方への帰順を取り成し、ともに安芸に下向させることで、安芸における毛利氏の勢力の維持を図った。
建武4年(1337年)、曾孫・元春へ安芸吉田荘を譲渡し[8]、暦応4年(1341年)7月6日に死去した。
永和2年(1376年)、毛利元春が足利義満に対して本領安堵を申し出た書状では、建武3年(1336年)7月に時親より譲与されたとあり、義満と今川貞世より署判を得た[7]。
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人物
脚注
参考文献
外部リンク
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