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水谷川忠起

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水谷川忠起
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水谷川 忠起(みやがわ ただおき、嘉永元年3月17日1848年4月20日) - 大正12年(1923年5月25日)は、日本僧侶神職還俗前は応昭(おうしょう)を名乗った。僧位僧階は法印大僧正。

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水谷川忠起
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水谷川忠起(大正頃)

一乗院門跡(第42代)、春日大社宮司などを歴任した。

来歴

近衛忠熙の八男、母は薩摩藩主・島津斉興の養女(実妹)・興子[1]。5歳で一乗院門跡の法嗣として仏門に入る。慶応4年(1868年)に還俗し、明治2年に華族に列した。同様に興福寺系寺院の住職から還俗して華族となった者らは、総称して奈良華族と呼ばれた。明治17年(1884年)には、華族令に基づき男爵となった[2]。明治28年(1895年)、「水谷川」の家名を賜わり、春日大社宮司となる。

家族

系譜

水谷川家

水谷川家は、近衛忠熙の子である水谷川忠起を始祖とし、奈良華族として列せられた。

近衞家

近衞家は、藤原忠通の子である近衞基実を始祖とし、五摂家の一つであった。

皇室との関係

後陽成天皇男系十世子孫である。後陽成天皇の第四皇子で近衛家を継いだ近衛信尋の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

脚注

参考文献

関連項目

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