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氷室長翁
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氷室 長翁(ひむろ ながとし、天明4年閏1月23日(1784年3月14日) - 文久3年10月1日(1863年11月11日))は江戸時代後期の尾張国津島牛頭天王社(津島神社)神主、桂園派歌人。名は豊長(とよなが / とよおさ)、通称は兵治、兵庫、伊織、将監[1]。
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生涯
天明4年(1784年)閏1月23日尾張藩士松井弘喬の次男として生まれ、文化4年(1807年)津島牛頭天王社神主氷室種長の養子となり、文化6年(1809年)神職を継いだ[2]。社殿を銅葺から檜皮葺とし、廻廊を新築、神領に水路を開削し、天王川堤に吉野桜を植樹した[3]。香川景樹に和歌、飛鳥井家に蹴鞠、豊原文秋に笙を学び[2]、文政元年(1818年)景樹を自邸に招いた[1]。
天保12年(1841年)養子泰長に神職を譲り[2]、名古屋南伊勢町及び前津の別荘に隠居して長翁と号し、毎月歌会を催して尾張国一円に桂園派を広めた[1]。
天保14年(1843年)京都で景樹が死去すると、遺児景周を世話し、弘化3年(1846年)春嵐山[2]、1846年弘化4年(1847年)秋須磨・明石へ旅行に連れ、『須磨日記』を書かせた[1]。嘉永元年(1848年)には妻と吉野に旅行して『芳野日記』を著し、嵐山・吉野の桜と高雄の楓を庭に植え、隅に一室を建てて三老居と号した[1]。

文久3年(1863年)10月1日死去し、小沼常楽寺に葬られた[1]。法号は成徳院寿山豊長居士[1]。現在墓は津島市指定史跡[4]。津島邸椿園は舟戸町瑞泉寺に茶席として移築されている[5]。
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著書
- 『芳野日記』 - 嘉永元年(1848年)春妻と吉野に行った記録[1]。
- 『巨瀬の山ふみ』 - 自撰歌集[1]。
- 『いつかの日記』 - 天保12年(1841年)隠居後伊勢神宮に参詣した記録[2]。
- 『御蔭日記』 - 『江戸後期紀行文学全集』第1巻所収。
- 『神事式』 - 文政13年(1830年)12月書。津島神社神事の記録[2]。
- 『水茎岡考』[2]
俳書『長寿楽』の編者氷室応汀を長翁とする説もある[2]。
門人
- 伊部義成 - 尾張藩士。門人、著書多数。文久年間自殺した[1]。
- 高木凝式 - 河村乾堂門下[1]。
- 吉田貞 - 尾張藩士。渡辺清に絵画、菱田文兵衛に鷹狩故実、取田正治に武家故実を学んだ[1]。京都で参与助役を務めた[1]。
- 尾崎吉従 - 尾張藩士。留書を務めた[1]。
- 本多俊民 - 植松茂岳門下[1]。
- 馬場守信 - 尾張藩士。北越戦争で兵糧奉行を務めた[1]。
- 鈴木信定[1]
- 鈴木重瑊 - 竹内享寿門下[1]。
- 繁野有道[1]
- 寺倉古史 - 納屋町の紙商[1]。
- 村瀬澹 - 上有知の人[1]。
- 取田正敏[1]
- 村瀬美香 - 尾張藩士。市江鳳香に陶芸を学び、不二見焼を創始した[1]。
- 三勝宗章 - 植松茂岳門下[1]。
- 元定[1]
- 行教[1]
- 行敬[1]
- 吉沢検校 - 長翁作詞により筝曲『花がたみ』を作曲した[2]。
和歌
- 「さくらはな咲てちるまの暫時はうきよ也けりみよしのゝ山」 - 『芳野日記』に初出。大光院
に歌碑が建てられた[2]。
親族

子孫
脚注
参考文献
外部リンク
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