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河原田稼吉

日本の官僚、政治家 ウィキペディアから

河原田稼吉
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河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年明治19年)1月13日 - 1955年昭和30年)1月22日[2])は、日本内務官僚政治家内務大臣第48代)、文部大臣第50代)、大阪府知事(官選第29代)。貴族院議員衆議院議員

概要 生年月日, 出生地 ...
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来歴・人物

美作鶴田藩士奥村就有の子として東京に生まれ、後の福島県南会津郡伊南村[3](現南会津町)、旧会津藩出身の農学河原田盛美養子となる。養父は日本における水産学の先駆者であるが、一時期近衛家家人となっていたため、稼吉の生涯にも近衛文麿の存在が深く関わってくることになる。

旧制第一高等学校を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。地方事務官、内務書記、熊本県及び長崎県警察部長を経て[3]、内務大臣秘書官床次竹二郎に見出されて社会局労働局長、台湾総督府総務長官、兼台湾総督府交通局総長取扱を歴任後、犬養内閣のとき中橋徳五郎鈴木喜三郎両内相の内務次官となる。当初は政友会系の内務官僚と見られていたが、近衛文麿の台頭とともにその側近として注目されるようになっていった。1937年(昭和12年)林内閣では近衛との関係もあってか内務大臣を拝命。退任後の1938年(昭和13年)1月7日に貴族院勅選議員に勅任されている[4]。同年産業報国連盟理事長[2]。1939年(昭和14年)には阿部内閣で文部大臣を拝命する。戦中の1943年(昭和18年)には官選の大阪府知事となる。同年に健康保険組合連合会会長。1946年(昭和21年)9月から公職追放[2]。同年5月14日、貴族院議員を辞職[5]

1952年(昭和27年)の第25回総選挙中選挙区福島2区から自由党公認で立候補して当選、再選も果たしたが、2期目在任中の1955年(昭和30年)1月22日に病死した[3]。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈[6]

協調会常務理事[3]会津会会員も務めた[7]

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栄典

出典

参考文献

外部リンク

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