トップQs
タイムライン
チャット
視点

法性寺 (墨田区)

東京都墨田区にある寺院 ウィキペディアから

法性寺 (墨田区)map
Remove ads

法性寺(ほっしょうじ)は、東京都墨田区業平五丁目にある日蓮宗の寺院。

概要 法性寺, 所在地 ...

概要

山号は妙見山、院号は玄和院、通称は柳嶋妙見堂。旧本山は本山真間山弘法寺[1]。旧寺格は緋金襴寺跡・中本寺。池上中道不二庵法類 柳嶋法縁 縁頭寺。葛飾北斎が信仰していた寺として知られる。

歴史

要約
視点

明応元年(1492年)、真間山弘法寺[2] 7世・聚楽院日與の弟子とされる法性房日遄が開山となり創建された。[1] 寛文13年(1673年)、弘法寺15世・妙悟院日玄が日朗門流(比企谷・池上門流)の本拠である長興山妙本寺・長栄山本門寺両山[3] 22世に晋山し南谷檀林を開檀。この事が端緒となり伊予阿闍梨日頂門流と日朗門流は急速に一体化の道を進んだ。日玄から江戸期最後の貫首である60世・妙慈院日運まで38人の貫首うち実に20人が弘法寺から晋山している事が、その証左である。[4]

柳嶋法縁

この流れの中で日頂門流系の寺院には飯高檀林城下谷(ねごやさく)出身の学僧が多く入寺するようになり、江戸時代中期には大きく2つの法縁[5] が成立する。1つが光照山感應寺を縁頭寺(中心寺院)とする堺感應寺法縁であり、もう1つが法性寺を縁頭寺とする柳嶋法縁である。 この柳嶋法縁の縁祖と仰がれるのが18世・玄玄院日顓である。 東山檀林の化主を務めた後の天明8年(1788年)に法性寺に入寺し、諸堂の全面改築と境内の拡張に尽力する事17年。文化2年(1805年)廣布山妙國寺に栄晋し権少僧都に任じられた。その後、同4年(1807年)には権大僧都、同6年(1809年)には大僧都に昇進し法印に叙せられ、同7年(1810年)には僧正に任じられた。更に妙國寺晋山後に正中山法華経寺に栄晋、最終的には比企谷池上両山の准歴にも叙せられ、文政2年(1819年)3月25日に64歳で遷化した。日顓の後、歴代住職には東山檀林の化主が迎えられ比企谷池上両山・弘法寺・龍水山海長寺等の貫首を輩出するなど、日朗・日頂両門流の重要寺院として名声を高めていった。[6]

葛飾北斎

そして、数多くの名僧を輩出した以上に法性寺の名を高めたのが、北辰妙見大菩薩信仰の隆盛であった。日顓が住持していた頃はまさしくその全盛期であったが、この頃に度々参詣していたと伝えられているのが葛飾北斎である。寺伝によれば、寛政6年(1794年)に勝川派を破門された北斎が生活の困窮と画業の大成を願い、当時“柳嶋の開運の妙見様”で名高かった柳嶋妙見堂に21日間通ったという。そして満願の日の帰路、突如雷に打たれて失神。再び眼を開いた時から運が開けて以来、度々参詣に訪れたと伝えられている。一説によれば「政」の名乗りは妙見菩薩の冠辞「北辰」に肖ったものと言われ、銘「柳嶋妙見堂」という絵を残している事からもその篤信ぶりが窺える。更には、当時の柳嶋妙見堂の賑わいが『江戸名所図会[7] にも取り上げられており、歌川広重歌川芳員も浮世絵に残している。[8] また広重を始め歌川豊国初代市川左團次6代目尾上菊五郎6代目桂文治などが芸道の開運を願って日参したと伝えられ、落語「中村仲蔵(蛇の目傘)」や歌舞伎「於染久松色読販」などでは柳嶋の妙見参りが登場する。

妙見様の御利益

このような盛況に継ぐ盛況の歴史に暗雲が垂れ込めたのが、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災第二次世界大戦であった。僅か30年の間に発生した存続の危機は歴代住職による命懸けの護持丹精によって切り抜けたが、戦後の復興期に至っても大きな問題が発生する。昭和40年(1965年)から昭和48年(1973年)に掛けて、東京都は下町地区の大震火災時の避難に関する研究を開始し広域避難場所を続々と選定し始めた。これに伴って木造狭小住宅が密集していた墨田区の業平・押上・文花・立花地区にも“広域避難場所の設定に伴う大規模な立ち退きの可能性”が生じたが、これに反対する地域住民が都と対立。一時は硬直状態に陥り深刻な状況にまで発展した。この時、地元の町内会長を務めていた38世・妙道院日意(鈴木良雄)が状況打開の為に英断を下し、本堂・客殿・庫裡等の主要建築物を取り壊した上で鉄筋コンクリート製の諸堂及びマンション(業平ハイツ)を建築。東京都が理想とする不燃性の高い建物を整え、対象の地域住民の為に広く門戸を開放したと言う。この「幽冥に北斗(北辰)の煌くが如く、達見(妙見)を以って人生の指針を示す」という妙見信仰の真精神は、39世・妙玄院日敬(鈴木良敬)に継承され今日に至っている。

Remove ads

伽藍・境内

文化財

歴代住持

さらに見る 歴代, 法号 (俗姓・道号) ...
Remove ads

旧本末

日蓮宗は1941年(昭和16年)に本末を解体したため、現在では旧本山・旧末寺と呼びならわしている。

  • 真間山弘法寺(千葉県市川市真間)
    • 弘法寺 末:妙見山法性寺(東京都墨田区業平)
      • 法性寺 末:星王山妙見寺(宮城県白石市柳町)
        • 妙見寺 末:久栄山法玄寺(宮城県気仙沼市入沢)-旧塔頭の星王山法玄庵。安政6年(1859年)4月の創立。昭和16年(1941年)11月に現在地に移転・寺号公称。
        • 妙見寺 末:星王山蓮収庵(宮城県白石市柳町)- 塔頭。現在は無い。
        • 妙見寺 末:星王山華光庵(宮城県白石市柳町)- 塔頭。現在は無い。
        • 妙見寺 末:星王山経覚院(宮城県白石市柳町)- 塔頭。現在は無い。
        • 妙見寺 末:瑞雲山薬師寺(宮城県白石市福岡蔵)
        • 妙見寺 末:大覺山日泰寺(宮城県柴田郡大河原町)

交通アクセス

脚注

Loading content...

参考文献

関連項目

Loading content...

外部リンク

Loading content...
Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads