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津田重長

戦国時代から江戸時代初期にかけての武士 ウィキペディアから

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津田 重長(つだ しげなが、? - 寛永2年〈1625年〉)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。津田流の砲術家

通称は平八、監物[1]津田算正の次男で、子に重信、正貞、算茂、正徳がいる。

生涯

紀伊国那賀郡[2]小倉荘(現在の和歌山県和歌山市岩出市[2])の土豪である津田算正の次男として生まれる[3]。兄・刀祢楠は天正5年(1577年)に切腹しており、重長が家督を継いだ[1]

重長は大和国郡山城主の増田長盛に仕え、慶長5年(1600年)、鉄砲衆50人を率いて関ヶ原の戦いに参戦したという[1]。その後、浅野幸長小早川秀秋に仕え、慶長7年(1602年)に秀秋が死去した後、美濃国加納松平忠政忠隆に300石で仕えた[4]

元和5年(1619年[5]徳川頼宣が紀伊に入国した際、鉄砲に関して有用な人材として重長を召し抱えようとしたが、重長は固辞したとされる[1]。重長は津田流砲術の伝書において、津田自由斎から津田流を継承したとされており[6][7]、父・算正や自由斎と同様、鉄砲の腕に優れていたとみられる[7]。また、津田流が砲術として確立したのは、重長や奥重政の代であると考えられる[1]

寛永2年(1625年)、重長は死去した[8]

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子息

重長の子のうち、長男・次男・四男は美濃加納藩に仕え、三男の算茂は江戸へと赴いた[9]

津田流砲術は長男・重信が継承した[9]。重信が加納で死去した後、その長男の算義が津田流を継いだとみられるが[8]、寛永9年(1632年[10]に松平忠隆が没して主家が断絶すると、算義は病身のため紀伊に戻り、砲術から身を引いたという[8]

重長の次男・正貞は小姓と口論になり、加納藩を退去した[8]。のち紀伊国那賀郡吉田中野黒木(岩出市)に住んだ[8]

四男・正徳は寛永4年(1627年)に加納から紀伊に戻り、寛文6年(1666年)に紀州藩に40石で召し出された[8]。長兄・重信の死後、津田本家の家督は正徳が継いでいる[8]

脚注

参考文献

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