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浄法寺氏
日本の氏族 ウィキペディアから
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浄法寺氏(じょうほうじし)は、日本の氏族。
出自
浄法寺氏の本姓は平姓畠山氏、元久2年(1205年)6月、畠山重忠とその子重保・重秀等は事に座して誅されたが、三男・重慶は難を逃れて、鎌倉浄法寺にて出家したのち奥州に下り還俗して、二戸郡安比川川谷の中心部(岩手県二戸市)に住み着いたのが始まりと伝える(『奥南旧指録』)[1]。
歴史
戦国期に安比川流域で屈指の大豪族となり、松岡、太田、駒ヶ嶺、大森氏などの諸氏がこの一族という。
浄法寺重安は、天正19年(1591年)9月、九戸政実の乱において九戸城攻略の先鋒として活躍し乱後には5,000石となる。また盛岡城構築のさいにも奉行並5人衆として参加した。
慶長6年(1601年)岩崎一揆において岩崎陣に参加した際、重安の嫡男重好は岩崎城代として前線警備の責任者であったが、南部勢が冬が迫っていたため春まで主力を撤収したあとに、密かに浄法寺に帰り春に再征したことが2年を経て後に発覚し、その怠慢の罪を問われて廃家没収され家系も断絶となった。
庶家
松岡氏
浄法寺松岡村(二戸市浄法寺町松岡)を領し、松岡館の郷村の在名を氏として分立した。浄法寺家没収後も南部家に従属していた。
太田氏
浄法寺太田村を領し、太田館の郷村の在名を氏として分立した。
西舘氏
浄法寺西舘に居て氏とする。
駒嶺氏
浄法寺駒嶺村に住して氏とする。
大森氏
慶長三年(1603)主家 浄法寺氏が領地没収となったことで、家臣たちも浪人となり、多くが秋田領比内郡十二所に移り住む中で、我等が祖大森助五郎盛清. 甚右衛門盛常 父子は、一時毛馬内に逼塞していたと思われます。亀四郎が生前、毛馬内のことを話題にしていたといわれます、その後の一族の動きから推しても、可能性が高い。「南部藩諸家系図」によると、再び浄法寺及び福岡に戻り、そこに住み続けたとあります。菩提寺は依然と浄法寺の福蔵寺です。その間に第18代盛清が世を去り、その福蔵寺に葬られてます。浪人したときに、一族は和田の姓を伏せ大森を名乗り始めました。
大森は盛常の妻の実家の姓です。先祖に対して面目ないと考えたのでしょう。
大森家は本来 三浦大介義明、和田義盛が祖であり、浄法寺大森家は和田義氏が祖であります。
家紋については、今現在、松岡家、大森家とも、五七の桐ですが、浄法寺氏から承ったものと思われます。
一族の一部は明治維新で和田の姓に戻していますが、二男義氏の末裔は江戸時代に名乗った大森姓のままです。
本来の家紋は丸内三引龍、裏紋(替紋)が子持ち隅切り角内五七桐です。
参考資料(盛岡藩雑書)盛岡市教育委員会 刊行を元に抜粋。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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