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淡水区

台湾新北市の区 ウィキペディアから

淡水区
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淡水区(たんすい-く;台湾語:Tām-tsuí-khu)は台湾新北市市轄区。近代には清朝条約港として台湾を代表する港町でもあった。

概要 地理, 座標: ...
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淡水漁人碼頭淡水第二漁港)と情人橋
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淡水文化園区(旧カス洋行倉庫)付近の淡水河畔に残る水上家屋。対岸は観音山
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地理

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Tansui (AMS, 1944)

台湾島最北部、淡水河の河口北側に位置し、北は三芝区,南は関渡および台北市北投区と接し、西は台湾海峡に面する。東は淡水河を隔てて八里区である。

風光明媚な土地として知られ台湾八景の一つに数えられ「東方のベニス」と称され、現在でも淡水河の落日は台北地区を代表する風景となっている。

行政区画

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歴史

もともと台湾原住民平埔族ケタガラン族が住み、その言葉でホオベエと称され、台湾語音の漢字で滬尾(Hōo-bé)あるいは虎尾(Hóo-bué)と書かれた。

1624年マニラからスペイン人が進出し、この地を占領してサン・ドミンゴ要塞を築いた。しかし1642年には台湾南部を占領するオランダ東インド会社がこれを駆逐し、要塞を再建した。サン・ドミンゴ要塞は後の紅毛城である。

1661年鄭成功がオランダ人を駆逐したが、1683年鄭氏政権 (台湾)滅亡後は清朝の領土となった[1]

1858年天津条約淡水港中国語版開港が定められたが、同条約が批准されなかったため、1860年の北京条約によって、条約港として開港された。紅毛城にはイギリス領事館が設置された。これ以降各国の商館が集まるようになり、淡水は19世紀後半には台湾最大の港湾として繁栄した。

しかし日本による統治時代(1895年~1945年)になると、河口に砂が堆積してしまい大型船が入りにくくなってしまった。このため台湾総督府は基隆港を建設、台北と基隆の間には鉄道も敷設され、港の繁栄は基隆に移り、以降は小さな漁村となった。

戦後、紅毛城など歴史的観光資源を多数持つ淡水は次第に観光地へと変貌していった。特に台北捷運淡水線の開通により淡水方面へのアクセスが劇的に向上した後は、台北市民が気軽に出かけられる観光地として栄えるようになった。2010年12月25日には台北県が新北市に改編されたことに伴い淡水区と改編され現在に至っている。

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