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渋谷区の町名
日本の東京都渋谷区に現存する、またはかつて存在した町名 ウィキペディアから
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本項渋谷区の町名(しぶやくのちょうめい)では、東京都渋谷区に存在する、または過去に存在した町名を一覧化するとともに、明治時代初期以来の区内の町名の変遷について説明する。
渋谷区の前史と行政区画の移り変わり
要約
視点
渋谷区は、昭和7年(1932年)10月1日、従前の豊多摩郡渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町(よよはたまち)の区域をもって成立した(当時は東京市の区であった)。以下、明治時代初期から渋谷区成立までの行政区画の変遷について略述する。
現在の渋谷区の区域は、かつては武蔵国豊島郡に属していた。後に渋谷区となる区域は、近世末には上渋谷村、上豊沢村、中渋谷村、中豊沢村、下渋谷村、下豊沢村、千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村、代々木村、幡ヶ谷村の11村と麻布広尾町、渋谷広尾町、渋谷宮益町などの町に分かれていた。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」に改称され、東京府が設置された。以後、1889年(明治22年)に東京市が発足するまでの過渡期には、東京府の行政区画はめまぐるしく変遷し、番組制、大区小区制、15区6郡制等と呼ばれる制度が相次いで実施された。
現・渋谷区の区域については、中渋谷村、下渋谷村、下豊沢村、千駄ヶ谷村、原宿村、麻布広尾町、渋谷広尾町、渋谷宮益町は東京府に編入された。残余の上渋谷村、上豊沢村、中豊沢村、下渋谷村、下豊沢村、穏田村、代々木村、幡ヶ谷村は、武蔵知県事の支配を経て、明治2年から4年(1869 - 1871年)までは品川県に属していた。
明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置された。同時に府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、大区小区の区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に渋谷区となる区域は、このうちの第7大区第1小区、及び第8大区第1・3小区に属していた。
その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。現・渋谷区の区域は、このうちの南豊島郡の一部、及び麻布区・赤坂区の各一部にあたる。
明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、東京府下の6郡は、既存の町村が整理統合されて85町村となった。85町村のうち南豊島郡に属していたのは2町6村で、このうち現在の渋谷区の区域に該当するのは渋谷村、千駄ヶ谷村、代々幡村の3村である。これら3村は、市制町村制施行以前に存在した町村の廃置分合によって成立した。新3村と旧町村の対応関係は以下のとおりである。
- 渋谷村 - 上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村、麻布広尾町、渋谷広尾町、渋谷上広尾町、渋谷下広尾町、渋谷宮益町、渋谷神原町、青山南町七丁目、青山北町七丁目
- 千駄ヶ谷村 - 千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村
- 代々幡村 - 代々木村、幡ヶ谷村
渋谷村の成立過程
→詳細は「渋谷」を参照
渋谷区の前身である3村のうち、渋谷村と千駄ヶ谷村の成立過程は複雑であるので、以下に別途説明する。
後に渋谷村となる地区には、近世末には上渋谷村、上豊沢村、中渋谷村、中豊沢村、下渋谷村、下豊沢村の6村と渋谷広尾町、渋谷宮益町、麻布広尾町などの町地があった(他にいくつかの小規模な町があったが、明治初期までに廃止されている)。このうち、中豊沢村は明治7年(1874年)中渋谷村に編入、上豊沢村は明治12年(1879年)上渋谷村に編入、下豊沢村は同じ明治12年、下渋谷村に編入されている。
明治3年(1870年)、渋谷広尾町が渋谷広尾町・渋谷上広尾町・渋谷下広尾町に分割。明治5年(1872年)には渋谷神原町が起立された。このほか、同じ明治5年に成立した青山北町一〜七丁目、青山南町一〜七丁目の各一部(それぞれの七丁目のみ)も後に渋谷村に編入されている。
明治11年(1878年)、東京府に15区6郡が設置された際、上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村は南豊島郡の村となり、渋谷広尾町、渋谷上広尾町、渋谷下広尾町、麻布広尾町は麻布区(港区の前身)、渋谷宮益町、渋谷神原町、青山北町一〜七丁目、青山南町一〜七丁目は赤坂区(港区の前身)にそれぞれ所属した(渋谷神原町は明治19年、赤坂区から麻布区に編入)。
明治22年(1889年)、町村制施行に伴い、上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村と、麻布区の一部(渋谷広尾町、渋谷上広尾町、渋谷下広尾町、麻布広尾町<一部>、渋谷神原町)、赤坂区の一部(渋谷宮益町、青山北町七丁目、青山南町七丁目)が合併して南豊島郡渋谷村が成立。旧3村と8町はそのまま渋谷村の11の大字となった。
千駄ヶ谷村の成立過程
後に千駄ヶ谷村となる地区には、近世末には千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村の3村と千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷大番町などの町地があった。
明治5年(1872年)、千駄ヶ谷町が千駄ヶ谷一〜三丁目となり、同年までに千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町が成立した。
明治11年(1878年)、東京府に15区6郡が設置された際、千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村は南豊島郡の村となり、千駄ヶ谷一〜三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町の計8町丁は四谷区(新宿区の前身)の所属となった。ただし、これらの8町丁は翌明治12年、四谷区から千駄ヶ谷村へ編入され、町名の一部は同村の小字となり、一部は消滅した。
明治22年(1889年)、町村制施行に伴い、千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村の3村が合併して新しい千駄ヶ谷村が成立。旧3村はそのまま新・千駄ヶ谷村の大字となった。この際、旧千駄ヶ谷村のうち字西信濃町・甲賀町・大番町・火薬庫前・川向・池尻・霞岳(かすみがおか)は分離して、再び四谷区に所属した。千駄ヶ谷村から再び四谷区へ移った地域は、かつての千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町の区域で、現行の新宿区大京町の南部、信濃町の西部及び霞ヶ丘町に相当する。また、原宿村の飛地(字五反田)の内、北半分が赤坂区へ南半分は麻布区に編入された(現・港区南青山四丁目の一部)。
千駄ヶ谷村は明治40年(1907年)、渋谷村は明治42年(1909年)、代々幡村は大正4年(1915年)にそれぞれ町制を施行して、千駄ヶ谷町、渋谷町、代々幡町となった。
渋谷区成立以後
昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。なお、従前の6郡のうち、南豊島郡と東多摩郡が明治29年(1896年)に合併して豊多摩郡となっている。編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ、35区から構成されることとなった。この時、千駄ヶ谷町、渋谷町、代々幡町の区域をもって渋谷区が新設された。
昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。この時、渋谷区を含む35区は東京都直轄の区となった。昭和22年(1947年)3月15日、35区は22区(同年8月、板橋区から練馬区が分離して23区)に再編されるが、渋谷区の区域には変更はない。
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旧町名
要約
視点
渋谷区では、1963年(昭和38年)から順次区内の住居表示が実施され、1970年(昭和45年)までに全域の住居表示実施が完了した。以下は、住居表示実施以前の1960年(昭和35年)現在の町名と現行町名の対照表である。
- 旧渋谷町では、渋谷区成立以前の昭和3年(1928年)に行政地名の変更を実施しており、従前の11大字が66大字に再編されている。この時成立した大字名はそのまま昭和7年成立の渋谷区の町名に引き継がれた(例:渋谷町大字宇田川→渋谷区宇田川町)。よって、これらの町(52町名66町丁)の成立年は1928年とした。
- 恵比寿地区、代々木地区、幡ヶ谷地区では、住居表示法施行に先立つ昭和35年(1960年)から町名整理が行われている。これらの町名については、別途一覧表を作成した。
- 住居表示が1月1日に施行されている場合は、その前年を旧町名の廃止年とした。
以下は、1962年(昭和37年)に住居表示法が施行される以前の町名地番整理で成立した町である。これらの町の区域では、1970年(昭和45年)までにあらためて住居表示整備が行われている。住居表示整備後もおおむね従前の町名が踏襲されているが、「恵比寿東」のように短期間で廃止された町名もある。
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現行行政地名
要約
視点
渋谷区では全区において住居表示の実施が完了している。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。
渋谷区役所区民課管内(84町丁)
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参考文献
- 『角川日本地名大辞典 東京都』、角川書店 、1978
- 人文社編集・刊行『昭和三十年代東京散歩』(古地図ライブラリー別冊)、2004
- 人文社編集・刊行『昭和東京散歩』(古地図ライブラリー別冊)、2004
- 重藤魯『東京町名沿革史』、吉川弘文館、1967
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