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湯目景康
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将 (1564-1638) ウィキペディアから
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湯目 景康(ゆのめ かげやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達氏の家臣。同名の孫(津田玄蕃景康)と区別するため津田豊前景康と表記される。
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出自
生涯
永禄7年(1564年)、長井郡筑茂城主・湯目重康の子として生まれる。天正5年(1577年)、伊達政宗が元服するとその側近となり、人取橋の戦い・摺上原の戦い・葛西大崎一揆鎮圧戦などに従軍。天正19年(1591年)、政宗が岩出山に転封されると栗原郡佐沼城主となり、1,500石を知行する。
文禄4年(1595年)、政宗が秀次事件に関与したとして謹慎を命じられた際には、中島宗求と共に伏見の津田が原にて豊臣秀吉に直訴し、処分を解くことに成功した。この功により景康は1,000石を加増されると共に、政宗から津田が原に因んで「津田」の姓を与えられ津田景康と改名した。
慶長5年(1600年)には奉行に任命され、慶長15年(1610年)に亘理郡坂元城主となるが、元和2年(1616年)には大坂夏の陣での功により3,800石に加増されて再び佐沼城主となった。寛永13年(1636年)、政宗の跡を継いだ仙台藩2代藩主・伊達忠宗により評定役に任命され、奉行職は嫡男・頼康が引き継いだ。
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系譜
- 父:湯目重康
- 母:大津光本の娘
- 正室:西(高泉隆景の娘)
- 津田頼康
- 高泉定康(高泉隆景の養子)
- 笠原盛康(笠原隆康の養子)
- 津田行康
- 津田千兼
脚注
出典
登場作品
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