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源顕定

平安時代中期の貴族。従四位上・民部大輔 ウィキペディアから

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源 顕定(みなもと の あきさだ)は、平安時代中期の貴族村上天皇の第四皇子、一品式部卿為平親王の子。官位従四位下(上)民部大輔

概要 凡例源顕定, 時代 ...

経歴

六位蔵人侍従弾正大弼を歴任する。

後一条朝初頭の長和5年(1016年)2月に姪の嫥子女王斎宮に立てられると、顕定は斎宮別当に任ぜられるが[1]、7月に妄りに故障を申し立てたことを理由に、藤原兼綱源親方と共に恐懼に処された。寛仁元年(1017年敦明親王に代わりに、敦良親王(のち後朱雀天皇)が立太子されると、顕定は東宮昇殿を聴されている。

寛仁2年(1018年敦康親王が没した際に、その葬送の次第を母に伝達している。寛仁3年(1019年頭弁藤原定頼に嘲笑されるが、この際に定頼が摂政藤原頼通の発言を引き合いに出したことから、逆に定頼が頼通の勘気を受けて謹慎させられている[2]。その後、民部大輔に任ぜられ、位階従四位下[3](または上[4])に至った。

治安3年(1023年)8月4日卒去。享年は不明だが、兄の生年から45歳以下であったとみられる。

逸話

あるとき、陣座五位蔵人藤原範国が職事(蔵人)として申文を受け取るため、上卿藤原実資がその申文を範国に読み上げていたところ、東の端にいた顕定は性器を露出した。範国はそれを見て噴き出したが、実資は奥の方にてそれが見えなかったためこれに激怒したため、その失態が奏上されてしまった。範国は恐れ慄いて事情を言えなくなってしまったが、顕定はそれを面白おかしく思っていたという(『江談抄』『今昔物語集』)。

官歴

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:為平親王
  • 母:源高明の娘
  • 妻:源済の娘
    • 男子:源資定(?-1070)
  • 生母不明の子女
    • 男子:頼定
    • 男子:頼尊

脚注

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