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烏丸光宣
准大臣 ウィキペディアから
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烏丸 光宣(からすまる みつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。 官位は従一位・准大臣[1]。
生涯
永禄12年(1569年)8月14日、光宣は父の光康、山科言継、飛鳥井雅春と共に、岐阜城の織田信長のもとに赴き、鳥一羽、太刀(金作り)、馬代(金十両)、居唐金鉢を贈った[3]。
元亀2年(1571年)4月14日、光宣の妻・入江殿(将軍・足利義昭の姉)が急死すると、後難を恐れた光宣は出奔した[4]。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[4]。また、光宣の出奔により、父の光康が閉門処分となった。
元亀3年(1572年)9月、信長が義昭に対し、異見十七ヶ条を提出した。信長はその中で、光宣に対する処置は妥当とするものの、父の光康を赦免するように申し上げたと記している[5]。
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人物
脚注
参考文献
関連項目
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