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烏丸光康
烏丸冬光の次男。従一位・准大臣。子に男子(-1544.7.25) ウィキペディアから
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烏丸 光康(からすまる みつやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。 官位は従一位・准大臣[1]。
生涯
永正10年(1513年)10月13日、烏丸冬光の子として誕生[2]。
将軍・足利義晴と親しく、大永7年(1527年)には近江にいた義晴のもとに下向した[2]。
享禄4年(1531年)1月、義晴が従三位・権大納言に昇進した際、勅使・清原業賢が朽木に下向してその宣旨を下したが、その対面時には光康が申次を務めていた[3]。
天文16年(1547年)3月、足利義輝・義輝父子が北白川城に籠城すると、光康も日野晴光や高倉永家、町資将、賀茂在留ら公家衆とともに付き従った[4]。
永禄12年(1569年)8月14日、光康は嫡子の光宣、山科言継、飛鳥井雅春と共に、岐阜城の織田信長のもとに赴き、鳥一羽、太刀(金作り)、馬代(金十両)、居唐金鉢を贈った[5]。
元亀元年(1570年)8月27日、光康は正親町実彦はと共に、野田・福島に陣取る三好三人衆と交戦中の信長のもとに赴いた[6]。
元亀2年(1571年)4月14日、嫡子・光宣に足利将軍家から嫁いでいた入江殿(将軍・足利義昭の姉)が急死すると、後難を恐れた光宣は出奔した[7]。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[7]。また、光宣の出奔により、光康は閉門処分となった。
元亀3年(1572年)9月、信長が義昭に対し、異見十七ヶ条を提出した。信長はその中で、光宣に対する処置を妥当とするものの、光康は赦免するように申し上げたと記している[8]。
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脚注
参考文献
関連項目
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