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甘縄神明神社

神奈川県鎌倉市長谷にある神社 ウィキペディアから

甘縄神明神社map
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甘縄神明神社(あまなわしんめいじんじゃ)は、神奈川県鎌倉市長谷に所在する神社。旧社格村社。鎌倉市最古の神社とされている[1]

概要 甘縄神明神社, 所在地 ...
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参道階段

もと甘縄神明宮甘縄神明社などと呼ばれていたが、1932年昭和7年)に「神社」名と定まった[2]

祭神

主祭神
配祀神

歴史

正徳2年(1712年)瑞峯祖堂による『相州鎌倉郡神興山ママ甘縄寺神明宮略縁起』によれば、和銅3年(710年)8月に行基が草創。年を下り、染屋時忠によって神輿山じんよざん上に神明宮、山麓に神輿山円徳寺という寺院が建てられたものと伝わる[3]

この縁起には、下向の源頼義平直方の娘と婚姻を結んだのち、当社に祈願したところ源義家が出生したとの逸話も伝わっており、以降、河内源氏との関わりが続いている。康平6年(1063年)には頼義、永保元年(1081年)には義家によって社の修復が行われた[4]

鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』には、文治2年(1186年)正月に安達盛長監督による修理・建築が終わり源頼朝北条政子と共に参詣したことが記され、また建久5年(1194年)6月20日・8月22日条にも頼朝が参詣したことが記されている[2]源実朝なども参詣した[5]

ただし開創については縁起に伝わる内容を懐疑視して、伊勢神宮の別宮として成立したものでないかとする異説もあり[2][3]、特に奥富敬之は行基の草創を虚伝と主張している[3]。当地は伊勢神宮の所領として長治年間(1104年  1106年)に成立した大庭御厨の範疇にある事、また、『吾妻鏡』の記載では度々当社が「伊勢別宮」として触れられている事から、当初より伊勢神宮の別宮として建てられたのではないかという[3]

『吾妻鏡』の記録では更に、源頼朝が参詣後に毎度安達盛長の屋敷(「甘縄の家」)へ寄っていたことが記録されており、社の南方には安達盛長の屋敷があったと伝える『安達盛長邸址』の碑がある。ただ、実際の屋敷は御成町今小路西遺跡の地域に建っていた[2]

名称の「甘縄」は長谷周辺の古い地名であったという[1]。「甘」が海女を表し、「縄」は漁に用いる縄を意味するとする説もある[5]

かつては甘縄院という別当寺が存在した。宝永6年(1709年)に没した京都妙心寺の独園和尚が当社を中興したと伝わり、その際に社殿・寺舎がつくられて、独園の弟子で前述の『略縁起』を著した瑞峯祖堂が住持となった[3]。本尊は地蔵菩薩であったという[6]神仏分離によって廃されたといい、1887年明治20年)には長谷寺の鎮守である五社明神が移設・合祀された[2]

1923年大正12年)の関東大震災では、本殿が半壊・拝殿は全壊の被害を受けており[3]、現存する本殿や拝殿は1937年昭和12年)に再建されたものである[2]

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例祭

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例祭で提灯の設置されている鳥居周辺(2015年9月13日撮影)

甘縄神明神社の例大祭は毎年9月7日から14日にかけて行われる[5]。御神酒所や神輿が用意され、大町八雲神社から出向してきた神官が祭事を執り行う。神輿の渡御は第2日曜日に行われる[5]

神社を題材とした文学作品

  • 万葉集』巻14にある作者不明の和歌かまくらの見越の崎の石崩の君が悔ゆべき心はもたじは、「見越の崎」が当山であるとの説があり、境内に歌碑が建てられている[3]
  • 宗尊親王瓊玉和歌集に、都にははや吹ぬらしかまくらの神輿ヶ崎の秋のはつ風と詠んだ[1]
  • 川端康成は社の近隣に住んでおり、小説『山の音』に描写されている鎌倉の家の周辺は、甘縄神明神社の近辺がモデルであるとされる[1][2]

交通

脚注

関連項目

外部リンク

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