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田万清臣
昭和時代の政治家、弁護士 ウィキペディアから
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田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8日[1] - 1979年(昭和54年)5月22日[1])は、昭和時代の政治家、弁護士。労働運動家。衆議院議員(3期)。配偶者は婦人活動家の田万明子。

経歴
香川県に生まれる[1][2][3]。1919年(大正8年)京都帝国大学独法科を卒業する[2]。大学では弁論部初代部長を務め、河上肇に傾倒した[1]。
卒業後、弁護士を開業し労働運動に参加[1]。大阪市会議員、同参事会員、同学務委員、借地借家調停委員、大日本興亜同盟理事を歴任した[2]。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙では大阪府第1区から社会大衆党所属で出馬し当選[2]。つづく第20回、第21回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた[2]。戦時下、大政翼賛会大阪府支部常務委員、同会政調厚生委員などを歴任した[3]。
戦後、公職追放となった[4]。その後、日本社会党大阪府連委員長などを務めた[1]。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙から1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで大阪府第1区から連続4回立候補したが、いずれも落選した[5]。
脚注
参考文献
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