トップQs
タイムライン
チャット
視点

田尻惟信

ウィキペディアから

Remove ads

田尻 惟信(たじり これのぶ)は、江戸時代前期の武士筑後国柳河藩の藩士。藩職は普請役[1]家格は組外書院番。石高は100石。田尻惣馬の名で知られる。

概要 凡例田尻惟信, 時代 ...

経歴

延宝6年(1678年)、筑後柳河藩士・田尻惟貞の子として誕生。

3代藩主・立花鑑虎の時に組外書院番から、十時摂津組に転属し、16歳で扶持米を拝領。元禄8年(1695年)に江戸に上る。矢部川改修や回水路新設、柳河藩領の有明海海岸埋め立てや磯島・唐男・高碇井堰の新設などの土木事業に貢献した。

元禄14年(1701年)に病気のために暇をもらい浪人となり、宝永6年2月28日1709年)に以前と同じ扶持米をもらい再仕官する。後に城中普請役および在方普請役に同時就任した。

宝暦10年(1760年)、死去。

父・田尻惟貞

父の田尻惟貞永禄年間に立花道雪に仕えた田尻鑑春(河内守)から6代目の子孫という。惟信は惟貞の次男にあたる。通称は惣助。

元禄年間に柳河藩の普請役に就任し、柳河藩の領内絵地図の作成に従事。元禄8年(1695年)に、上妻郡北山村の曲り松から山下までの矢部川沿岸1300の千間土居の築堤工事が行われるが、この主任となる。

元禄10年(1697年)には藩命により別業御茶屋集景亭を完成させる。これは後に藩主家別邸の御花畠(現在の立花氏庭園「御花」)の前身となる。

脚注

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads