トップQs
タイムライン
チャット
視点

目黒徳松

ウィキペディアから

Remove ads

目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4月11日[1])- 1899年明治32年)12月31日[2][3])は、明治期の地主実業家政治家衆議院議員。号・楓堂(ふうどう)[1]

経歴

越後国魚沼郡、のちの新潟県[2]北魚沼郡須原村[1][3]守門村須原を経て現魚沼市須原)で、須原村庄屋・目黒五郎助の息子として生まれる[1]。1868年1月26日(明治元年1月2日)家督を相続した[1]

戸長を務める[2][3]。1880年(明治13年)10月、新潟県会議員半数改選で初当選し、1883年(明治16年)1月まで在任[1]。1882年(明治15年)12月、小千谷町(現小千谷市)で魚沼立憲改進党が結成されると関矢孫左衛門岡田龍松らと共に加わった[4]。1887年(明治20年)7月、新潟県会議員補欠選挙で当選し1888年(明治21年)11月まで在任[1]。同年12月、県会議員に再選され1890年(明治23年)1月まで在任[1]。同年7月に県会議員に再選され1892年(明治25年)3月まで在任し[1]、県会議員を通算4期務めた。

1892年2月、第2回衆議院議員総選挙で新潟県第7区から議員集会所(立憲改進党)所属で出馬して当選し[1][5]、衆議院議員に1期在任した[2]

小学校、銀行、会社の設立に係わり、県道の開削、大河津分水路と上越鉄道敷設運動などに尽力した[1][2][3]

Remove ads

親族

  • 長男 目黒孝平(衆議院議員)[1]
  • 二男 目黒文平(1884-1936、実業家、兄孝平没後に家督を相続)[1]

脚注

参考文献

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads