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矢田長之助

日本の外交官 ウィキペディアから

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矢田 長之助(やだ ちょうのすけ、明治4年9月20日[1]1871年11月2日) – 昭和15年(1940年11月27日[1])は、日本外交官。駐シャム(タイ公使

経歴

島根県簸川郡塩冶村(現在の出雲市)で矢田伝四郎の長男として生まれる[2]1895年(明治28年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。教員を経て、1899年(明治32年)に外交官及領事官試験に合格した[2]1900年(明治33年)より領事官補として天津漢口に勤務した[1]。その後、駐メキシコ公使館三等書記官、同二等書記官、バンクーバー領事オタワ総領事、ニューヨーク総領事、ホノルル総領事を歴任した[1]1921年大正10年)より駐シャム公使を務めた[1]

退官後は横浜市立横浜商業学校横浜市立横浜商業専門学校校長事務取扱を務め[2]、さらに財団法人暹羅協会(のち日本タイ協会)常務理事・理事長を務めた[1]正四位勲二等の叙勲がある。

妻のチヨは松江藩士で教育者の渡部寛一郎の長女で、明治10年生まれ。この甥に官吏で実業家の渡部慶之進がいる。長男の誠は横浜正金銀行員。次男は健二、長女のハルは陸軍少佐浅野某の妻、二女の富美子は福島県富岡町の岡義賢の五男である岡庄五(日本ビクター取締役)の妻。この兄弟には石炭会社の実業家の岡義千代、林辺賢一郎(旧米沢藩士の養子)や岡秀実がいる。

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脚注

参考文献

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