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石川総弾

日本の江戸時代後期の大名 ウィキペディアから

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石川 総弾(いしかわ ふさただ)は、常陸下館藩の第4代藩主。伊勢亀山藩石川家分家6代。

概要 凡例石川総弾, 時代 ...

生涯

宝暦5年(1755年)第3代藩主・石川総候の三男として誕生した。兄の総孝総賢が早世したため、明和6年8月27日(1769年9月26日)に世子に選ばれ、翌年に父が死去したため跡を継いだ。明和8年4月1日(1771年5月14日)将軍徳川家治に拝謁し、同年12月18日(1772年1月22日)従五位下・近江守に叙任し、後に若狭守となった。寛政7年7月12日(1795年8月26日)、死去した。子は娘一人で継子なく、弟の総般が養嗣子となった。

藩主としては有能で、藩内における綿花生産(真岡木綿)を奨励して産業を発展させることで藩財政を豊かにした。ところが天明の大飢饉で大被害を受け、さらに同時期に領内を洪水(天明6年6月20日(1786年7月15日)小貝川五行川の大洪水)・火災(天明7年7月(1787年8月)下館大火)が襲って、その救済や復興費で藩財政は一気に破綻寸前となった。このため、総弾は経費節減や博打の禁止などの倹約や風紀の徹底、さらに災害対策費などをまとめ上げた8か条の法令を制定することで藩政を再建した。また教養人としても優れ、北条玄斎から心学を学び、黒板政胤を助けて学問所である有隣舎を創設するなど、藩士・領民に対する教育の普及に尽力した。

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系譜

父母

正室

子女

養子


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