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穂積五一
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穂積 五一(ほづみ ごいち、1902年3月26日 - 1981年7月17日)は、日本の社会教育家。アジア学生文化協会、アジア文化会館の創設者として知られる。アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどから2万人を超える留学生を受け入れ、国際交流に貢献した[1]。
経歴
愛知県八名郡能登瀬村(現・新城市能登瀬)に生まれる[2][3]。父親は帝国議会議員を1期務めた鈴木麟三[4]。弟に日本社会党衆議院議員の穂積七郎がいる。幼くして1904年6月27日に父を亡くし[5]、母とともに生家を追われる。旧制愛知県豊橋中学校を経て[6]、旧制第七高等学校造士館を1926年に卒業し[7]、同年東京帝国大学に進学[8][9]。
1925年(大正14年)、上杉慎吉を中心とする思想団体「帝大七生社」が結成され、穂積は同団体において会員の育成にあたった。1929年(昭和4年)、東京帝国大学法学部を卒業した年に上杉が死去。1932年(昭和7年)2月から3月にかけて血盟団事件が発生するが、帝大七生社の会員のうち4名が事件に関与、逮捕されている。同年、帝大七生社の学生宿舎である「至軒寮」を東京市本郷区に開設した[10]。
1940年(昭和15年)8月、三上卓らとともに「皇道翼賛青年連盟」を結成した。満州移民に反対し、朝鮮と台湾の解放を唱え、朝鮮の独立運動家をかくまい、日米開戦後は「反東条」を掲げて戦争終結の道を探った[8]。
1945年(昭和20年)、敗戦を機に至軒寮は「新星学寮」と改称。間もなく公職追放となる[注釈 1]
追放解除後の1957年(昭和32年)3月、新星学寮に東大アジア学生友好会を結成。留学生との交流活動を開始する。同年9月、文部省所管の財団法人としてアジア学生文化協会を設立。穂積は寮を守り続け、官途にもつかず、国内外の青年たちの訓育に生涯を捧げた[12]。自宅も「新星学寮」と同じ敷地(文京区本郷6丁目)に構えた[2]。至軒寮・新星学寮からは村山富市[13]・稲葉圭亮[14]・岡崎英城[14]・田中宏・丸谷金保・金丸三郎[14]・山本富雄[14]・塚本三郎[15]・杉浦正健[16]などの人物を輩出した。
1959年(昭和34年)8月、通商産業省の要請により海外技術者研修協会(現・海外産業人材育成協会)を設立し、理事長に就任。1960年(昭和35年)6月、アジア文化会館を設立[10]。
1975年(昭和50年)10月、アジア学生文化協会が国際交流基金の「国際交流奨励賞」を受賞[1][10]。
1981年(昭和56年)7月17日、東京医科歯科大学医学部附属病院で肺炎のため死去[2]。79歳。
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脚注
参考文献
外部リンク
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