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竹原世連

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竹原 世連(たけはら せれん、1972年11月8日 - )は日本のヒップホップダンサー、クリエイター、ディレクター東京都江東区亀戸のダンスカンパニー、「studio3」[1]の主宰。

概要 生年月日, 愛称 ...
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概要

鳥取県倉吉市出身。幼少期に東京都江東区へ移住し東京都立墨田工業高等学校に進学。中学まではオタク気質のインドア派であり運動には興味を示さない少年であったが、進学後間もなくしてヒップホップダンスに傾倒、私立高へ進学したお洒落な同級生を尻目にディスコで夜な夜なダンス修行に勤しむ。足の感覚が無くなるほど昼夜問わずダンス練習の日々を送り、テレビ朝日系列深夜放送のダンス番組「DADA L.M.D」に出場、第13回大会チャンピオンを獲得する[2]

その後同級生である田中傑幸小笠原秀春永田雅規と「れいかんやまかんとんちんかん」を結成し、日本テレビ系列天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の人気コーナー「高校生制服対抗ダンス甲子園」に初回放送から出演。関東代表で出場した第2回全国大会決勝[3]はアクロバット技の練習中に腰を打撲したため欠場したが、チームは準優勝を果たす。後頭部に「たけし」の文字や似顔絵の剃り込みを施すなどビジュアル面での演出に加え、スピード・キレ・バランス力を織り交ぜたダンススタイルはその後の日本ダンスシーンに少なからず影響を与えた。

なお、第3回の大会予選に出場した「アジャ・コング&戸塚ヨットスクールズ」 のリーダー山本太郎は、この大会から自身のグループメンバーが欠員した理由について竹原がアクロバット技の練習中に上から落下した事を例にし、勝村政信とやり取りしている[4]

高校卒業後は俳優、タレントとしての芸能活動、ストリートダンスの発展に傾注するが、1999年、東京都江東区亀戸にダンスカンパニー「studio3」を設立し、ダンスチームのプロデュース、後進インストラクターの指導育成に重点を置く。また、公益財団法人児童育成協会「ダンス交流フェスティバル」の編成や地元でのダンスイベント開催など、当スタジオを通じてヒップホップダンスの普及啓発、 地域活性に取り組む傍ら、クリエイターとしてフライヤー[5]、飲食店のメニュー作成、Tシャツ、バック、キャップのデザイン、制作、販売などを手掛けている。

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エピソード

  • 1997年ごろからMacの愛用者。血液型はO型。父方の叔母新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」(1977年7月閉店)[注 1]のママであり、タモリタレントデビューする際に所属したマネジメント事務所「オフィス・ゴスミダ」の社長、A子[6]
  • 「studio3」の「3」は、三遊亭圓楽が「楽太郎のHARAGUROラジオ」(文化放送)で、「(世連の)「世」という文字には数字の「3」の意味も含まれている」と言った事を引用した。 

経歴

脚注

外部リンク

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