トップQs
タイムライン
チャット
視点

笠井庄兵衞

ウィキペディアから

Remove ads

笠井 庄兵衞 (かさい しょうべえ、1828年文政11年3月〉- 1889年明治22年〉7月10日[1])は、日本の政治家資産家実業家慈善家地主東京府会議員[2][3]東京市会議員を務めた[2][3]。縁戚に旧皇族伏見宮敦子女王(伏見宮博恭王第2王女)らがいる。自らの資財をも支出し、麻布区内の公立学校(今の幼稚園や小学校)の設立を積極的に呼びかけた[4]。現在に至る麻布区内の下水道の基礎を作り上げた1人である。

概要 生年月日, 出生地 ...

来歴

東京府出身。1875年(明治8年)、第一大学区第二中学区第十五番小学(現港区立麻布小学校)の設立を呼びかけた[4]。1879年(明治12年)9月、麻布区初代区長の前田利充ら5人と下賜金を主にして水道を開設することを企画し、華族10名の願書を添えて東京府知事の許可を請願した。計画は麻布、赤坂の3区に給水するものだったが、発案した麻布区が工事を施行し、2万円の予算(内訳は1500円の下賜金と区内有志よりの寄付金が16700円、不足分は区の共有金から支出)であった。1880年4月に府知事の許可を得た麻布水道工事を府に委託し、翌年11月着工、翌1881年に完成した。1884年には、芝麻布共立幼稚園の協力賛成者となり、前期の第十五番小学校と併せて麻布区内の教育にも力を入れた[4]

1887年(明治20年)の所得税調査委員選挙時代には地価681円を保有しており、庄兵衞は現在の金額に換算すると土地代で年間1362万円を払っていたことになる[2]。 また、中規模地主でありながら質屋を経営しており、骨董品などの展示も行っていた。1889年(明治22年)6月に、麻布区選出の東京市議会議員となるが、当選のおよそ1ヶ月後に死去した[1][5][6]

なお、当時の所得税調査委員には、「名誉職」という社会的地位の高さを示す称号が付与された 。東京電燈の株主第7位として70株全体の3.5%を保有した。栗原編(1964)[7]によれば当時の物価は米1石7円。(2000株×100円)で20億円のため、現在の価値で1400万円。また、東京商工会議所の会員として渋沢栄一らと交友関係があった。

Remove ads

選挙

1878年12月
1828年8月24日
  • 麻布区学務委員 選人
1882年2月27日
  • 第三期東京府会議員選挙:麻布区1級当選[3]
1887年第一期所得税調査委員選挙
  • 所得税調査委員(麻布区)当選5等級 東京府会議員兼務)[3]
1889年5月
  • 制限選挙第一期東京市会議員選挙:麻布区1級当選(任期4年)[2]

家族・親族等

家族

親族

三女よしの夫は大木良輔で[9]、その弟が狩野宗三[12](東京府士族)である。

狩野宗三の妻、勝は浅田徳則の四女で[13]、その姉のみつ(浅田徳則の次女)の夫が渡干城である[14]。渡干城は、父が渡正元[14]貴族院議員錦鶏間祗候)、母が松根セツ[13]松根図書の子女)で、弟に渡左近[14]陸軍中将)、渡久雄[14](陸軍中将)、渡正監[14]上海共同租界警視総監)がいる。

縁戚関係

渡干城の母セツの義理の兄である伊達宗淳[14]華族男爵)その父伊達宗城[14]宇和島藩8藩,藩主)と宗淳の兄弟 真田幸教松代藩9代,藩主)・ 広幡忠礼公卿侯爵)・島津忠麿(伯爵)と幸民の養子 清棲幸保(清棲家2代当主,伯爵)その妻旧皇族伏見宮敦子女王(伏見宮博恭王第2王女) らがいる。

脚注

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads