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筑紫 (巡洋艦)

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筑紫 (巡洋艦)
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筑紫(つくし)は、日本海軍巡洋艦[4]。 艦名は九州西海道筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向大隅薩摩)の古称[4]清国海軍超勇級防護巡洋艦「揚威」と「超勇」の2隻は同型の姉妹艦である。

概要 筑紫, 基本情報 ...
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チリ軍艦としての就役想像図(1883年)
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概要

元はチリ向けに建造された「アルトゥーロ・プラット(Arturo Prat)」[9]、または「プラット(Prat)」である[22]イギリスニューカッスルにある アームストロング・ミッチェル[1]ロー・ウォーカー造船所[2](またはエルジック造船所[3])で建造された (機関はホーソン社で製造[1])。 設計者はジョージ・レンデル[8]、またはサー・エドワード・リード[22]レンデル式英語版砲艦防護巡洋艦の過渡的な艦であった[22]南米の太平洋戦争での海上戦が優位に進んだため、チリは売却することにしたか支払いを停止して所有権を失った[9]。 その後も工事が続けられ竣工したものを、日本海軍が購入、 1883年6月16日に「筑紫」と命名した。 日本海軍初の鋼製艦であり[21]、 日本海軍初の帆走設備を全廃した艦でもある。 また主砲の旋回に水圧機械を用い、艦内に白熱電灯を使用したのも日本海軍で初めてだった[17]。 購入当時は兵装、機関共に新式で、速力も砲艦としては優秀だった[23]

日清戦争日露戦争などに参加[4]、 後年は警備兼練習艦の役務が多くなった[23]1906年雑役船に編入され、1911年に廃船となり売却された。

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艦型

前述したように日本海軍最初の鋼製艦である[21]

機関

ボイラーは低円缶4基で、蒸気圧力は90ポンド/平方インチ[1]

主機は横置2段気筒レシプロ2基[1]。 気筒の直径は高圧筒30 in (760 mm)、低圧筒60 in (1,500 mm)、行程36 in (910 mm)[23]。 復水器は青銅製円筒形の表面復水器2基を装備した[23]

2軸推進[11]。 推進器は鋳鋼製2翼グリフィス形で直径16 in (410 mm)、ピッチ16 in (410 mm)[23]

兵装

日本海軍購入時の砲熕兵装は以下の通り[16]

主砲(安式10インチ砲)の旋回と揚弾薬装置には水圧が使用された[17]

魚雷発射管は装備するスペースが無かった[24]

その他

日本海軍で初めて、艦内に白熱電球が装備された[17]。 また白熱電球と探照灯用に、 蒸気機関を用いたシーメンス式80V発電機が装備された[17]

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艦型の変遷

1888年(明治21年)時の砲熕兵装は以下の通り[25]

  • 10 in (25.4 cm)アームストロング後装砲 2門
  • 40ポンド・アームストロング後装砲 4門
  • 9ポンド・アームストロング後装砲 2門
  • 機砲:37mm保(ホチキス)砲 4基[26]
  • 艇砲:短7.5cm砲[27]

1898年(明治31年)に9ポンド砲とホチキス砲に代わって、12ポンド速射砲1門と3ポンド速射砲2門を装備した[3]

艦歴

要約
視点

購入

1882年(明治15年)12月18日、ドイツキール港に停泊する軍艦2隻の購入が決定したが、伊藤少将、佐双少匠司が渡欧して試運転を行った結果、出力、速力が当初報告に届かない問題が出た[28]。 加えて砲の搭載には甲板の修理が必要で更に出費が重なるため、購入を取りやめた[28]。 この時、ニューカッスルに売軍艦があり、艦砲を完備し、日本回航のために修理する必要もないため、82,000ポンドで購入した[28]。 搭載する発電機と汽船2隻は別価格で1,200ポンドだった[29]1883年(明治16年)6月16日、この軍艦は筑紫ツクシと命名された[30][注釈 1][注釈 2]

回航

海軍省主船局の御雇外国人ゼームス(J. M. James、英国人)がイギリスに出張[31]、 筑紫艦長としてし乗艦し回航を請け負った[32]。 また回航に必要な物品等の購入代金は佐双が管理した[33]。 7月11日に「筑紫」はニューカッスル港を出港[32]、 横須賀造船所での鉄船製造の伝習の為に雇った職工2名も乗艦した[34][35]。 8月7日アデン[36]、 8月30日シンガポール着[37]、 燃料の不足が懸念されたために長崎港に寄港し[38]、 9月19日横浜港に到着した[39]

1883年

10月27日三等艦に定められた。

12月24日明治天皇は横浜に臨幸、「筑紫」は横浜港天覧を受けた[40]

1884年

1884年(明治17年)5月30日「海門」と「筑紫」が中艦隊に編入された[41]

1885年

1885年(明治18年)12月28日中艦隊は解隊[42]、同日「春日」を除く中艦隊に所属していた8隻(「扶桑」「金剛」「比叡」「海門」「筑紫」「清輝」「磐城」「孟春」)で改めて常備小艦隊が編成された[42]

1889年

1889年(明治22年)3月9日「筑紫」は常備小艦隊から外れ横須賀鎮守府常備艦に指定された[6]。 5月10日に横須賀鎮守府常備艦の役務を解かれた[43](予備艦指定)。

1890年

1890年(明治23年)8月23日、呉鎮守府所管の「筑紫」は第一種に定められた[44]

1892年

1892年(明治25年) 9月8日、非役艦(予備艦)の間は常置人員を置かない、と令達された[45]。 12月8日、呉鎮守府所管「筑紫」は警備艦に指定された[7]

1894年

1894年(明治27年) 4月4日、呉鎮守府常備艦「大和」「筑紫」「赤城」の3隻は常備艦隊に編入された[46]

日清戦争

1894年から1895年日清戦争に従軍。 大連旅順威海衛攻略作戦等参加した。

1895年

1895年(明治28年) 7月29日、呉鎮守府警備艦の役務を解かれた[47](予備艦指定)。

1898年

1898年(明治31年)3月21日軍艦及水雷艇類別等級が定められ、「筑紫」は一等砲艦に類別された[48]

義和団の乱

1900年2月 - 10月 北清事変 廈門上海警備従事。

日露戦争

1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争では対馬海峡港警・日本海海戦等に参加した。

日露戦争後

1906年(明治39年)5月25日除籍[4][10]、 同日艦艇類別等級別表からも削除[49][注釈 3]、 雑役船に編入された。

その後

呉海兵団附属となった「筑紫」は1911年(明治44年)11月1日呉海兵団から還納し廃船とする訓令が出された[50]。 12月21日売却の訓令[51]1912年(明治45年)3月22日に売却が報告された[52]

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艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 松村正命 少佐:1883年8月16日 - 1886年5月28日
  • 野村貞 中佐:1886年5月28日 - 12月28日
  • 尾形惟善 大佐:1886年12月28日 - 1889年4月17日
  • (心得)森又七郎 少佐:1889年4月17日 - 8月29日
  • 森又七郎 大佐:1889年8月29日 - 1890年5月13日
  • (心得)窪田祐章 少佐:1890年5月13日 - 9月17日
  • 窪田祐章 大佐:1890年9月17日 - 1892年12月5日
  • (心得)三善克己 少佐:1892年12月5日 - 12月21日
  • 三善克己 大佐:1892年12月21日 - 1895年5月11日
  • 井上良智 大佐:1895年5月11日 - 5月25日
  • 向山慎吉 大佐:1895年5月25日 - 9月28日
  • 石井猪太郎 大佐:1896年5月19日 -
  • 大井上久麿 中佐:1897年12月1日 - 1898年10月1日
  • 加藤友三郎 中佐:1898年10月1日 - 1899年6月17日
  • 斎藤孝至 中佐:1899年7月25日 - 9月2日
  • 松枝新一 中佐:1899年11月20日 - 1901年8月30日
  • 横尾純正 中佐:1901年8月30日 - 1902年3月13日
  • 黒水公三郎 中佐:1902年4月11日 - 1903年4月12日
  • 西山保吉 中佐:1904年1月14日 - 1905年3月15日
  • 土山哲三 中佐:1905年3月15日 - 12月12日
  • 上村経吉 中佐:1906年1月25日 - 5月10日
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公試成績

さらに見る 実施日, 種類 ...

脚注

参考文献

関連項目

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