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紀元前338年
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紀元前338年(きげんぜん338ねん)は、ローマ暦の年である。
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当時は、「マルクス・フリウス・カミルスとガイウス・マエニウスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元416年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前338年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ペルシア帝国
ギリシャ
- ピリッポス2世はロクリスにてカイロネイアの戦いにおける大きな意味のある勝利を収め、すぐさまフォキスに入った。そして南東のケフィッスス谷へ折り返し、町の要塞を奪取し復元させた。
- アテナイはエウボイア島、メガラ、アカイア、コリントス、アカルナニア、そしてペロポネソス半島にあるいくつかの都市国家と同盟関係を結んでいた。しかし、アテナイにとって最も同盟を結ぶのが望ましいのは、歴史的に敵対してきたテーバイであった。そこで、アテナイの指導者デモステネスはボイオーティアの町に行き、テーバイとの同盟関係を確保した。マケドニアの代表団がテーバイに対し、マケドニア王国に加わるよう説得の努力を続けている最中のことであった。同盟の代わりに、アテナイはテーバイがボイオーティアを統治することを認め、そしてテーバイは陸上では単独で、海上では共同で指揮されることとなり、そしてアテナイは必要な費用の3分の2を支払うと取り決められた。
- 8月2日、ピリッポス2世は西ボイオーティアのカイロネイアの戦いにおいてアテナイ・テーバイ連合軍を打ち負かす。戦いの間、彼の息子アレクサンドロス3世はマケドニアの左翼を指揮していた。勝利によって、ピリッポス2世はテーバイに対して厳しい態度をとるが、アテナイに対しては寛大な措置を取る。これは、アテナイの雄弁家で外交官のデマデスがマケドニアとアテナイの間の平和交渉を手助けするなど努力した結果だった。
- ピリッポス2世はペロポネソスに進出。テッサリアを破り、スパルタを制圧し、コリントスにて全ギリシャを招集させる(コリントス同盟)。これにより、マケドニアはアテナイを含む中央ギリシャにおいて覇権を持つこととなった。
- 優れた政治家で雄弁家のアテナイのリュクルゴスは、国家財政の管理権限を与えられ、そして年間歳入が倍になるよう動いた。
- スパルタ王のアルキダモス3世は南イタリアに5年間遠征したが何ら決定的な結果を得ることができなかった。ルカニア人と敵対するターラントに加勢するために傭兵の軍隊を導いて戦い、カラブリアのマンドゥーリアにて彼の部隊の大半と共に戦死した。
- スパルタ王のアルキダモス3世の後継には彼の息子アギス3世がついた。
シチリア
共和政ローマ
中国
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誕生
→「Category:紀元前338年生」も参照
死去
→「Category:紀元前338年没」も参照
脚注
関連項目
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