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緋縅力弥 (1856年生)

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緋縅 力弥(ひおどし りきや、安政3年(1856年3月 - 明治21年(1888年9月9日)は、武蔵国豊島郡(現在の東京都中央区)出身で玉垣部屋に所属した元力士。本名は玉垣 辰藏(旧名小柴辰五郎)。10代玉垣。身長は不明。体重は105kg。最高位は東前頭筆頭。

経歴

幼年時に玉垣部屋に入っていたが、1873年4月、17歳の時に序ノ口の土俵に上がり、相撲人生をスタートさせる。恵まれた体格を持ちながらも、それを活かせず時間がかかったが、1881年5月荒玉辰五郎の四股名で新入幕を果たす。1883年5月に東前頭筆頭の地位に上げたのを機に、玉垣部屋の名大関の緋縅力弥の四股名を継承する(これ以前に緋縅だけは受け継いでいた)。その後、1885年5月より二枚鑑札となり、力士稼業に加え親方業にも励んでいたが、1888年9月9日に長野県での巡業中に、湯田中温泉で急死した。

成績

  • 番付在位場所数:30場所
  • 幕内在位:15場所
  • 幕内成績:30勝41敗65休13分1預

場所別成績

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  • 1887年までは十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
  • 二段目11枚目以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。また当時の二段目11枚目以下の星取や勝敗数等の記録については2024年現在相撲レファレンス等のデータベースに登録がなく、特に下位の記録はほとんど現存していないと思われるため、二段目11枚目以下の勝敗数等は暫定的に二段目10枚目以上との対戦の分のみを示す。
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改名

荒玉辰五郎→緋縅辰五郎(1882年1月場所-)→緋縅力弥(1883年5月場所-) [4] [5]

出典

関連項目

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