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総力戦研究所
大日本帝国における内閣総理大臣直轄の研究所 (1940-1945) ウィキペディアから
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総力戦研究所(そうりょくせんけんきゅうじょ、旧字体:總力戰硏究所󠄁、英語: Total War Research Institute)は、大日本帝国において1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された、内閣総理大臣直轄の研究所、教育機関である[1][2]。
この機関は国家総力戦に関する基本的な調査研究と“研究生”として各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちに対し、総力戦体制に向けた教育と訓練を目的としたものであった[3][2][4]。1945年(昭和20年)4月1日付施行の勅令第115号により廃止[5][6]。
設立
第一次世界大戦末期より、次に戦争が起きた場合は、総力戦となるであろうという懸念が政財界、軍の間で考えられていた[7]。設立にあたっては、紆余曲折を経たが、1940年(昭和15年)8月、設立が閣議決定され、10月1日、企画院内で総力戦研究所の開所式が執り行われた[8]。星野直樹が所長事務取扱、所員には渡辺渡(陸軍大佐)、松田千秋(海軍大佐)、奥村勝蔵(外務省書記官)、大島弘夫(内閣書記官)、前田克巳(大蔵省書記官)、寺田省一(農林省書記官)、岡松成太郎(商工省書記官)らが最初に充てられた[9]。同年12月3日、研究所主事に岡新(海軍少将)、技本総務部長兼任所員として藤室良輔[10](陸軍少将、1941年10月に同所主事)が加わった[11]。
1941年4月1日に入所した第一期研究生は、官僚27名(文官22名・武官5名)と民間人8名の総勢35名[12][13][14]。その後4月7日になって、皇族・閑院宮春仁王(陸軍中佐、当時陸軍大学校教官)が聴講生として入所した[15][16]。一期生は1942年(昭和17年)3月まで研究・研修を行い卒業となった[15]。
1942年4月に第二期生39名を、1943年(昭和18年)には第三期生40名を受け入れている[17]。その三期生は、同年12月15日で繰り上げ卒業[15]。
実体としては、研究機関というより教育機関であり、欧州に留学した陸軍軍人(辰巳栄一や西浦進等)がイギリスの帝国国防大学などで文官・武官を問わず人材育成をしていることに注目して設立した、現在でいうところの「大学院大学」であった[3][18][2][19]。名称も「国防大学」にしようとしたが、「大学という字句は文部省の所管とならねば異存が出る」として、西浦進が書いた要綱案に使った仮称の「総力戦研究所」が使用された[3][20][21]。
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入所者について
入所に当たっては、一定の資格要件があり、各省庁の推薦を経て、面接試験によって入所が決まった[22][23]。資格要件や待遇は下記のとおりである。
- 人格面が高潔であること、頭脳明晰、健康体であること、そして将来各方面において指導者たる存在となりえる人物[22][24]
- 武官の場合、階級は少佐又は大尉であること、文官は高等官四等ないし六等で任官5年以上となる者[22][24]
- 民間の場合、文武官と同等の職歴経験を有する者[22][24]
- 年齢は35歳程度までを上限とする[22][24]
- 途中退所は原則として不可[22][24]
- 給与については、研究所入所前の組織より支払われるものとするが、指揮系統については研究所の指揮下に入ることとする[22][24]。ただし、研究に関する出張旅行についての旅費は研究所より支給する[22][24]。
途中退所は原則不可であったが、実際は日本製鉄からの入所者が、軍への入隊のため退所した[25]。
入所者は講義などの座学に加え、軍の演習や、軍需工場の視察などを行った[26][25]。視察には満州や中国への視察もあった[25]。講義も研究所の所員によるものもあれば、外部講師を招聘した講義もあり、外部講師には尾崎秀実、辻政信の講義もあった[27][28]。
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机上演習
要約
視点
第一期生の入所から3か月余りが経過した1941年7月12日。総力戦研究所初代所長飯村穣(陸軍中将)は研究生に対し、演練として日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画を発表[29][30]。同日、研究生たちによる演練用の青国(日本)模擬内閣も組織された[13][30]。
模擬内閣閣僚となった研究生たちは7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した[31][32][13]。その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した[31][33][13]。これは、現実の日米戦争における戦局推移とほぼ合致するものであった(原子爆弾の登場は想定外だった)[34]。
この演練の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において時の首相近衛文麿や陸相東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告された[35][30]。
研究会閉会に当たって東條は、参列者の意見として以下のように述べたという。以下の出典は[34]。
諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というのは君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争で我が大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦と言うものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。したがって、君たちの考えていることは、机上の空論とは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。
一方、慶應義塾大学教授の牧野邦昭によれば、総力戦研究所は最初から「官僚の訓練施設」「各省庁の割拠主義を克服するための機関」としか位置づけられておらず、演練による研究成果を政策に活かすということは考えられていなかったとし、当時参謀本部の欧米課課員だった杉田一次が、上記8月の演練について「われわれの関知するところではなかった」と述べ、設立を推進した西浦進もあくまで教育機関としての評価しかしておらず、総力戦研究所という名称ではあっても実体は「教育機関」だったからこそ自由な議論ができた一方、教育機関であるがゆえに研究成果を政策に反映させることが出来なかった、としている[21]。
また牧野によると、総力戦研究所で米英との開戦を想定して作った資料には、長期戦になればアメリカの経済力が優位に立つものの、開戦当初における日本の武力的優位性やアメリカ国内の民族問題、思想問題の存在により「長期戦にならざる限り」対米戦に勝利の見込みがあるとされており、また、日米開戦直後の1941年(昭和16年)12月25日には、「大東亜戦争」を遂行後にはソ連との戦争が控えているとして、対ソ戦に向けた国力整備が必要であるとする演練の結果を提言しているなど、様々な内容の提言をしているため昭和16年8月の演練のみに注目するのは問題があり、その研究成果がかなり過大に評価されている面があるとしている[21]。
戦後の極東国際軍事裁判では、総力戦研究所の研究内容が現実の戦局にかなり近かったため、総力戦研究所が政府の日米戦争開戦に寄与したのではないかと問いただされたが、結局その事実は無いと、初代所長の飯村穣と所員の堀場一雄が主張し、告発は立証されなかった[32][34]。
一方で、総力戦研究所は「大学院大学」として、戦後に活躍する人材の育成に役立った[36]。
模擬内閣 閣僚名簿
(1941年7月12日組閣)[37]
- 内閣総理大臣 - 窪田角一(産業組合中央金庫参事・調査課長)
- 外務大臣 - 千葉晧(外務省東亜局)
- 外務次官(兼) - 林馨(在上海日本大使館三等書記官)
- 内務大臣 - 吉岡恵一(内務省地方局)
- 警視総監 - 福田冽(内務省計画局)
- 大蔵大臣 - 今泉兼寛(大蔵省主税局)
- 陸軍大臣 - 白井正辰(陸軍省・陸軍大尉)
- 陸軍次官 - 岡村峻(陸軍省・陸軍主計少佐)
- 海軍大臣 - 志村正(海軍省・海軍少佐)
- 海軍次官 - 武市義雄(海軍省・海軍機関少佐)
- 司法大臣 - 三淵乾太郎
- 文部大臣 - 丁子尚(文部省宗教局宗教課)
- 文部次官 - 倉沢剛(東京女子高等師範学校教諭)
- 農林大臣 - 清井正(農林省官房文書課)
- 商工大臣 - 野見山勉(商工省総務局)
- 逓信大臣 - 森巌夫(逓信省官房総務課)
- 鉄道大臣 - 芥川治(鉄道省運輸局)
- 拓務大臣 - 石井喬(拓務省拓南局)
- 厚生大臣 - 三川克巳(厚生省職業局)
- 企画院総裁 - 玉置敬三(商工省物価局第二部化学課長)
- 情報局総裁 - 秋葉武雄(同盟通信社編輯局東亜部)
- 対満事務局次長 - 宮沢次郎(満州国総務庁参事)
- 興亜院総務長官 - 成田乾一(済南特務機関)
- 朝鮮総督 - 日笠博雄(朝鮮総督府殖産局)
- 日本銀行総裁 - 佐々木直(日本銀行資金調整局書記[38])
- 大政翼賛会副総裁 - 原種行(東京高等学校教授)
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歴代所長
第三期生を送り出して以降は所長職は無く、所長心得が代行した[39]。以下の表の出典は[9]。
脚注
関連文献
関連項目
外部リンク
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