トップQs
タイムライン
チャット
視点

織田信光

日本の戦国時代の武将 ウィキペディアから

織田信光
Remove ads

織田 信光(おだ のぶみつ)は、戦国時代武将。津田豊前守信光とも。織田信定の子、信秀の弟。通称は孫三郎。愛知県西部にあたる尾張国の稲葉地城および守山城主。織田信長叔父にあたる。

概要 凡例織田 信光, 時代 ...
Thumb
信光の居城だった稲葉地城址(名古屋市中村区の神明社)
Thumb
信光の菩提寺である凌雲寺

生涯

永正13年(1516年)、尾張国の織田弾正忠家の当主・織田信定の子として誕生。若年より武略に優れ、兄・信秀に従って小豆坂の戦いに出陣し武功を挙げ、『甫庵信長記』などによれば小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。

天文4年(1535年)、居城の守山城を松平清康に攻められるが、清康が重臣の阿部正豊に殺害されたことにより松平勢は撤収した(守山崩れ)。信秀の死後は、家督を継いだ甥の織田信長を支持し、萱津の戦い村木砦の戦いなどで活躍した。

信長公記』によると、信長と敵対する織田大和守家当主・織田信友の重臣・坂井大膳の誘いに応じるふりをし、天文24年(1555年)4月19日に清洲城に入城。翌20日、信友を謀殺して清洲城を奪い、大膳は今川義元の下に逃れた。

信光は信長に清洲城を渡すと、自身は信長より譲られた那古野城に入ったが、弘治元年11月26日(1556年1月7日)に不慮の死を遂げた。『甫庵信長記』によると、近臣で北の方(信光夫人)と通じていた坂井孫八郎により殺害されたという。

Remove ads

系図

織田信光
┣━━━┳━━━┓
信成  信昌 仙千代
┣━━━┓ 
正信 光徳院

演じた俳優

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads