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羽幌沿海フェリー

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羽幌沿海フェリー
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羽幌沿海フェリー株式会社(はぼろえんかいフェリー)は、北海道苫前郡羽幌町に本社を置く海運会社である。羽幌町の離島である天売島焼尻島と北海道本土を結ぶ定期航路を運航している[1]。 本項では、同社の前身である苫前両島定期船株式会社及び両島運輸株式会社以来の概要についても記述する。

概要 種類, 本社所在地 ...

概要

天売島、焼尻島と北海道本土を結ぶ定期航路は、明治期以来、道庁命令航路として小樽稚内線が寄港していたが、もともと月6-8往復の航海である上、海象の厳しさもあり、1932年(昭和7年)9月1日羽幌線が羽幌まで開通すると同航路は急速に衰退した[2]

1933年(昭和8年)に羽幌町の江野力が発動機船「天羽丸」を建造し、羽幌 - 焼尻 - 天売の郵便航送を札幌逓信局と契約、1934年(昭和9年)に新航路を開設した。同時期には苫前船入澗が完成したことから、苫前から両島への定期航路が計画され、1935年(昭和10年)5月、苫前両島定期船株式会社が設立され、社長として江野が就任、運航を開始した[2][注 1]。1942年(昭和17年)には増資の上、社名を両島運輸株式会社と改めた。

戦後、1949年(昭和24年)9月15日からは国鉄羽幌線との連絡運輸も行われ、当初は苫前駅接続[3]、のちに両島運輸の航路変更に合わせ羽幌駅接続としたが、羽幌線の廃止に伴い連絡運輸も廃止されている。また、羽幌港が地方港湾として整備され、1950年(昭和25年)にようやく羽幌寄港が実現するが、冬期は寄港せず、しばらくは苫前航路が主力であった[2]ものの、1969年(昭和44年)に船舶の大型化もあって、全面的に羽幌発着に移行した。

1960年代以降、観光ブームによって特に夏期の観光客が増加し、船舶の大型化が進められたほか、1964年(昭和39年)から小型船による天売島の赤岩周遊航路の季節運航を開始、また、国鉄名羽線の着工を受けて、1962年(昭和37年)、朱鞠内湖の観光船を幌加内町から譲受したが、1971年(昭和46年)に天売観光船株式会社朱鞠内湖観光汽船株式会社がそれぞれ設立されて分離した。

両島航路では、1989年(平成元年)に初のカーフェリー「フェリーおろろん」、1991年(平成3年)には高速船「さんらいなぁ」が就航し、1992年(平成4年)1月1日には社名を羽幌沿海フェリー株式会社に変更[4]、在来貨客船は姿を消した。以来、2025年(令和7年)に至るまでフェリーと高速船の2隻体制であるが、季節波動の激しさと定住人口の少なさから、夏場の観光シーズンは高速船及びフェリーをフル回転させて運航便数を確保する一方、秋から冬にかけての閑散期には高速船は休航し、フェリーのみ一日一往復の運航とされている。

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本社

  • 北海道苫前郡羽幌町港町1丁目

航路

運航中の航路

  • 羽幌港 - (24km、高速船35分、フェリー1時間) - 焼尻港 - (11km、高速船15分、フェリー25分) - 天売港

過去の航路

北海道本土と焼尻島・天売島を結ぶ航路のほか、天売島の観光船、幌加内町朱鞠内湖遊覧船を運航していた。

  • (焼尻港 -) 羽幌港 - 苫前漁港 - 焼尻港 (- 天売港)
創業時は苫前 - 焼尻 - 天売の航路であったが、1950年から羽幌港に寄港、1969年苫前寄港廃止。
  • 留萌港 - 焼尻港 - 天売港
1951年から1956年に定期航路として運航された。
  • 天売港 - 赤岩周遊[5]
6.0km。1964年運航開始の夏期不定期航路。1971年に天売観光船として分社化[6]
  • 第一堰堤 - 出水口 - 白樺駅 - 母子里
17.5km、朱鞠内湖Aコース。5 - 10月運航、一日1便。
  • 朱鞠内湖一周
7.5km、朱鞠内湖Bコース。5 - 10月運航、一日2便。
幌加内町が1950年代から運営していた朱鞠内湖の遊覧船を、1962年頃に譲受[7]、1971年に朱鞠内観光汽船として分社化[6]

沿革

  • 1935年(昭和10年) - 苫前町にて苫前両島定期航路株式会社設立[8]。「天羽丸」(初代)、苫前 - 羽幌 - 天売 - 焼尻航路に就航。
  • 1938年(昭和13年) - 「第二天羽丸」(初代)就航[9]
  • 1942年(昭和17年) - 増資の上、両島運輸に社名変更[8]
  • 1947年(昭和22年) - 「第三天羽丸」(初代)就航[9]
  • 1949年(昭和24年) - 国鉄との連絡運輸開始[9]
  • 1950年(昭和25年) - 羽幌港への寄港を開始し、本土側2港の三角航路となる[9]
  • 1951年(昭和26年) - 「第六天羽丸」就航。留萌航路開設[9]
  • 1956年(昭和31年) - 留萌航路廃止[9]
  • 1959年(昭和34年) - 「天羽丸」(2代)就航[10]。初の鋼船。
  • 1963年(昭和38年) - 「天羽丸」(3代)就航[11]
  • 1969年(昭和44年) - 「天羽丸」(4代)就航[12]。本社を羽幌町に移転、苫前寄港を廃止し[9]、羽幌発着に集約する。
  • 1974年(昭和49年) - 「第三天羽丸」(2代)就航[13]
  • 1989年(平成元年) - 「フェリーおろろん」就航[14]。初のカーフェリー。
  • 1991年 (平成3年) - 高速船「さんらいなぁ」就航[8]
  • 1992年(平成4年) - 羽幌沿海フェリーに社名変更[8]
  • 2001年(平成13年) - フェリー「おろろん2」就航[8]
  • 2013年(平成25年) - 高速船「さんらいなぁ2」就航、羽幌側の発着地を中央ふ頭の新ターミナルに移転[15]
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使用船舶

運航中の船舶

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焼尻港に停泊するおろろん2
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焼尻港に入港するさんらいなぁ2
2001年竣工、新潟鐵工所建造
489総トン、全長48.52m、全幅10.5m、航海速力15.0ノット、旅客定員300名(冬期100名)、8トントラック2台および乗用車8台。
船内は1等室(30名)および2等室に分かれている。天売島、焼尻島の生活物資の輸送を一手に引き受けており、4月の一部期間を除く年中を通して運航し、季節によって運航便数が変わる(最大3往復)。閑散期(減便期)は旅客定員を少なくしている。
2013年竣工、墨田川造船建造
 122総トン、全長35.0m、全幅6.0m、航海速力23ノット、旅客定員130名。
4月のフェリー休航時および繁忙期のみの運航。閑散期には飛島航路など他の離島航路に、代船として貸し出されている。

過去の船舶

両島航路

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羽幌港に停泊するさんらいなぁ
  • 天羽丸(初代)[9]
1933年建造、17.8総トン、機関出力25ps、木造船。
  • 第二天羽丸(初代)[9]
1938年建造、30総トン、機関出力50ps、木造船。
  • 第三天羽丸(初代)[9]
1947年建造、61.47総トン、機関出力75ps、木造船。
1951年6月進水、57.25総トン、木造船。焼玉機関、機関出力115ps、航海速力7.5ノット、旅客定員80名。
  • 天羽丸(2代)(貨客船)[10]
1959年7月進水、下田船渠建造、75.80総トン、全長24.50m、型幅5.15m、型深さ2.05m、ディーゼル1基、機関出力260ps、航海速力10ノット、旅客定員43名。
引退後、道南海運に譲渡、「第二おくしり丸」に改名[17]
  • 第二天羽丸(2代)(貨客船)[17]
1959年9月進水、下田船渠建造、78.33総トン、登録長24.87m、型幅5.20m、型深さ2.15m、ディーゼル1基、機関出力320ps、最大速力12ノット、旅客定員80名。
もと浜益海運「はまます丸」。1968年、雄冬海運に譲渡、「新おふゆ丸」に改名。
  • 天羽丸(3代)(旅客船)[18]
1963年4月竣工、1969年引退、下田船渠建造、116総トン、航海速力12ノット、旅客定員188名。
  • 天羽丸(4代)(貨客船)[19][20]
1969年3月竣工、1989年引退、中村造船鉄工所建造、306.42総トン、全長43.20m、幅7.60m、機関出力1,200ps、航海速力13.5ノット、旅客定員435名。
  • 第三天羽丸(2代)(貨客船)[19]
1974年5月竣工、臼杵鉄工所臼杵工場建造、369.58総トン、全長45.20m、幅7.80m、機関出力1,500ps、航海速力14.77ノット、旅客定員600名。
北海道離島航路整備と船舶整備公団の共有船(用船)。
  • フェリーおろろん(フェリー)[21][22]
1989年5月竣工、2001年引退、横浜ヨット建造、450総トン、全長49.50m、全幅10.00m、機関出力2,800ps、航海速力14.0ノット、旅客定員420名、乗用車6台または8tトラック2台。
北海道離島航路整備と船舶整備公団の共有船(用船)。
1991年4月竣工、2012年引退、横浜ヨット建造、149総トン、全長34.05m、幅6.40m、機関出力3,280ps、航海速力25ノット、旅客定員200名。
船舶整備公団との共有船。4月のフェリー休航時および繁忙期のみの運航だった。

朱鞠内湖航路

  • 第一観光丸(旅客船)[7]
1953年8月進水、木造、9.96総トン、ディーゼル1基、機関出力6ps、航海速力5ノット、旅客定員22名。
  • 浮島丸(旅客船)[7]
1960年6月進水、木造、4.95総トン、ディーゼル1基、機関出力45ps、航海速力8.0ノット、旅客定員30名。
  • しらさぎ(旅客船)[23]
1963年5月進水、木造、4.90総トン、ディーゼル1基、機関出力40ps、航海速力9.0ノット、旅客定員30名。
当初朱鞠内湖に就航、のち天売島周遊航路に転配された[6]
  • わかさぎ(旅客船)[6]
1963年5月進水、木造、2.50総トン、ディーゼル1基、航海速力5.0ノット、旅客定員10名。

天売島周遊航路

  • 第一おろろん(旅客船)[6]
1964年5月進水、木造、3.00総トン、ディーゼル1基、機関出力12ps、航海速力7.0ノット、旅客定員24名。
  • 第二おろろん(旅客船)[6]
1964年6月進水、木造、3.00総トン、ディーゼル1基、機関出力12ps、航海速力8.0ノット、旅客定員24名。
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脚注

  1. 当時、羽幌港は修築工事を行っていたが、波浪による破壊で使用不能であった。(小納正次 著『焼尻の歴史』続,小納正次,1997.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13198153 (参照 2025-09-18))

出典

外部リンク

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