トップQs
タイムライン
チャット
視点
自主憲法論
日本国憲法に代わる独自の憲法を制定しようとする考え ウィキペディアから
Remove ads
自主憲法論(じしゅけんぽうろん)とは、日本国憲法(昭和憲法)は戦勝国に押し付けられたものであり、成立過程において不備があり、日本独自で新しく憲法論議をし、新憲法を制定しようとする政治思想[1]。
概要
自主憲法論は自民党の党是として著名であるが、自民党は「現行憲法の【自主的改正】」は結党以来の党是、としており[2]現行憲法無効論や失効論に立つものではない。一方で学者や政治家、政治活動家の中には現行憲法の無効確認決議ののち、旧憲法の規定に従い新憲法を策定すべきとの主張(神川彦松、石原慎太郎や小沢一郎など)があり、これらも自主憲法論者に含めて論じられることがある。
自主憲法論者の劈頭である神川彦松によれば「「日本国憲法」は、戦勝国がその戦争目的および占領目的を達成するために作った、純然たる「外国製憲法」であり...占領が済めば...当然に失効すべき性質のもの...である。...独立後に日本国民の手になるほんとうの民主的な憲法が作られなければならないことは民主主義そのものの必然の要請だということができる。自主憲法制定の必然的なゆえんである」[3]との主張である[4]。国士舘大学の高乗智之によれば自主憲法制定論は「日本国憲法が占領下において成立したことに鑑み、それが真の意味で一国の憲法といえるのか、憲法としての正当性あるいは正統性があるのか...憲法としての性格に関する根本的な疑義を内包する」ものである[5]。
日本の主権回復直後から、国会議員や学術関係者の中で議論されており、元貴族院憲法案特別委員会とその関係者で「萍(うきくさ)憲法研究会」、神川彦松による「自主憲法制定論」、自由党による「憲法調査会」(1954年(昭和29)3月)、改進党による「新日本国民憲法創定に関する決議」(1954年(昭和29)1月)「憲法調査会」(1954年(昭和29)4月)、日本民主党による「憲法調査会法案」の国会への提出(1955年(昭和30))、同年11月15日の自由民主党の結成に際しては党是の第一に自主憲法の制定を掲げるに至った[6]。
Remove ads
立場
自由民主党内では結党当時、綱領や党是で自主憲法制定を掲げた歴史的経緯から、現在でも憲法改正を自主憲法制定と表現する。
これに対し、左派勢力では「社会主義実現」を掲げた旧日本社会党や、長く天皇制打倒を綱領で掲げ終戦直後には人民共和国への移行や暴力革命も辞さないとしていた日本共産党すらも、その後9条だけは守り抜くという狭義の護憲に転じた。
→詳細は「護憲 § 「憲法をまもる」の詳細」、および「日本共産党 § 第二次世界大戦終結後(合法化以降)」を参照
→「日本社会党 § 結党から片山内閣へ」、および「所感派 § 派閥と北京機関の設置」も参照
日本維新の会につながる系譜でも、旧たちあがれ日本や次世代の党→日本のこころでは保守強硬を前面に打ち出し、自主憲法草案を発表するなどした。なお、旧維新の会の地方組織だった東京維新の会は、憲法無効論を支持して明治憲法への復古を目指そうという請願を東京都議会に提出して関係を絶たれる事態となった。
→詳細は「東京維新の会 § 日本国憲法無効論」、および「日本のこころ (政党) § 政策」を参照
Remove ads
歴史
大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦)に敗れた大日本帝国は、大日本帝国憲法が外見的立憲君主制に立つと解釈する立場からすると、そのような解釈を変更(例えば、吉野作造のように「君臨すれども統治せずというような英国流も日本の国体に反しない」と理解していた)しない限り、そのままでは国体を維持することがもはや不可能となっていた。ポツダム宣言は日本の民主的傾向の復活強化[7]を占領解除の条件にしており、連合国が明確に了承できる対処が必要であった。
→詳細は「国体 § 終戦」、および「立憲主義 § 外見的立憲主義」を参照
1952年(昭和27年)、対日講和条約発効により独立を回復したが、1954年7月7日に当時の憲法改正担当大臣であった松本烝治が自由党憲法調査会でGHQより脅迫めいた要求があったことを紹介する[8]と、自由党の鳩山一郎・岸信介らは昭和憲法は米国をはじめとする占領軍による押しつけだとの主張を始めた。そして、1955年(昭和30年)の自民党結党時に綱領の詳細を記した『党の政綱』[9]の中に「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う」という文言が掲げられた。
→詳細は「自由民主党 (日本) § 党の政綱」、および「押し付け憲法論 § 経緯」を参照
→「GHQ草案手交時の脅迫問題 § 松本烝治「二月十三日会見記略」」、および「岸信介 § 保守合同」も参照
自民党による自主憲法制定論は昭和憲法の改正手続きに則った憲法改正論であり、護憲勢力が衆議院の1/3以上を確保したことにより挫折した。なお、当時の参議院は政党に属さない保守系議員が多くを占めていた。鳩山は衆議院の2/3を確保することを目的の一つとして小選挙区制導入を図るが、これも失敗する。
→詳細は「憲法改正論議 § 55年体制下での議論」、および「ハトマンダー § 概要」を参照
1970年代には自民党内で保守強硬勢力が台頭し、自主憲法制定を前面に押し出した政策集団青嵐会が結成された。青嵐会は後に派閥化し、中川派自由革新同友会となった。
戦後50年を経ようとしていた1994年(平成6年)、読売新聞は初めて自社独自の改正憲法草案を発表した。これ以後、一時封印状態とも言われていた自主憲法の論議が再び本格化する。
この節の加筆が望まれています。 |
主張している主な政党・政治団体
かつて主張していた政党・政治団体
脚注
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads