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保守合同
自由党と日本民主党による結党 ウィキペディアから
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保守合同(ほしゅごうどう)とは、1955年11月15日に日本の保守政党であった自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成されたこと。

1955年11月15日 中央大学駿河台講堂
これに先立って社会党再統一が行われていたことから保守政党と革新政党のそれぞれに大政党が誕生することとなり、55年体制が成立した。
経緯
要約
視点
戦前の帝国議会では、立憲政友会と立憲民政党の保守二大政党が定着しており、革新系は社会大衆党が第三党を占めたが、二大政党の立場を脅かすことはなかった。しかし、GHQ占領下で政党が復活する時、社会主義勢力の台頭を危惧する保守政治家の間で、旧政友、民政両党が結集して一大保守新党を結成する構想が出された。政友会系はかつて同党の総裁候補とされていた鳩山一郎を代表に担ごうと考え、戦時中の翼賛議会で鳩山とともに軍部と戦った民政党系の三木武吉が構想の実現に奔走した。
だが、民政党系の多くは党首の経験の無い鳩山よりも自党の最後の総裁であった町田忠治が党首に相応しいと主張し、結局民政党系の大半は大日本政治会を母胎とする日本進歩党の結成に参加し[注釈 1][1][2]、結成1ヵ月後総裁に町田を就任させたことにより構想は挫折した[2]。
こうして、旧政友会は日本自由党、旧民政党は進歩党として別個復活する。しかし占領下の政界では、革新政党が合同した日本社会党が勢力を伸ばして保守二大政党を脅かす規模になり、協同組合主義に基づいた中道政党も一定の規模を維持する等、戦前のような保守二大政党で政界を寡占する状況は生まれなかった。政党復活後最初の第22回衆議院議員総選挙(1946年4月10日投開票)では、自由党、進歩党、社会党の鼎立状態となり(定員466、自由党141、進歩党94、社会党93、その他138)、自進両党の大連立による第1次吉田内閣が成立[注釈 2]。憲法改正に合わせて行われた第23回衆議院議員総選挙(1947年4月23日投開票)では、社会党が自由党、民主党(自由党の反吉田派が離党した勢力を進歩党が吸収合併して結党)両党を抜いて第一党になる(定数466、社会党143、自由党131、民主党124、その他68)。社会党の片山哲委員長が首班となり、保守政党からは民主党が連立入り、自由党は下野する。
片山内閣は、炭鉱国家管理等の社会主義政策を推し進めると、民主党右派はこれに反発して離党。1948年には予算不成立により内閣総辞職する情勢の中、自由党は民主党に対して、連立離脱、保守合同による「救国政党」の樹立を呼び掛けた。しかし、GHQが片山の後継に民主党の芦田均総裁を推す考えであったことから民主党の大半は動かず、自由党は民主党の離脱組を吸収(同時に民主自由党に改称)するにとどまった[3]。
芦田内閣も程なく総辞職すると、社会・民主両党の連立政権は崩壊して民自党・吉田総裁が組閣(第2次吉田内閣)。1949年1月23日、第24回衆議院議員総選挙で民自党は大勝して単独過半数を獲得する。吉田総裁は再び民主党に連立を呼びかけるが、これへの賛否を巡って民主党は分裂。連立派は民自党に入党(同時に自由党へ改称)するが、反連立派は中道の国民協同党と合同して国民民主党を結成。社会党は左右両派がイデオロギー対立により分裂して弱体化していたため、自由党の一党優位体制の確立により政局は一時安定する[4]。
サンフランシスコ講和条約締結、日本が独立を回復すると、鳩山らベテラン政治家が公職追放解除、政界復帰することで、政界再編の動きが再び活発になる。特に自由党では、復帰後に政権の禅譲を要求する鳩山と、これを拒否する吉田の間で党内抗争が勃発する。1953年4月19日、バカヤロー解散と鳩山の一時的な離党によって行われた第26回衆議院議員総選挙で、自由党はついに半数割れをするとともに、社会党が復調の兆しを見せる(定数466、自由党199、改進党[5]76、左派社会党72、右派社会党66、鳩山系自由党35、その他18)。第5次吉田内閣は改進党の閣外協力を得て、鳩山は禅譲を匂わせる甘言に釣られて復党する等して政権を維持する[6]。
1954年3月より自改両党の合同による政権の安定化が図られるが、この動きは頓挫、するとこの交渉の枠組みが転じて、反・吉田の保守勢力による新党結成の動きが起こり、1954年11月、再び自由党を離脱した鳩山を総裁に迎える形で日本民主党が結成。吉田内閣は総辞職し、第1次鳩山内閣が成立する。
しかしこの頃、社会党の左右両派で、合同の機運が盛り上がっていた。民主党結党の政界再編が起こっていた1954年9月、統一促進委員会が合同会議を開き、翌年をめどに合同することで一致。11月10日には、郎党で連立政権を目指すとの共同声明を発表する。1955年1月18日、両党は同時に党大会を開催し、次期総選挙後の統一を公約に掲げる。支持組織の日本労働組合総評議会(総評)も、「憲法擁護、再軍備反対」を基礎とする申し入れを行い、再統一を支援した[7]。
一方、保守陣営では、造船疑獄を受けて新たな献金団体「経済再建懇談会」(日本経済団体連合会の前身)を結成。同時に民自両党の提携ないし合同を要求するが、鳩山側近の三木武吉は「選挙で過半数以上をとって安定政権をつくりあげるから、選挙後の保守合同は何も考えていない」と強気のコメントを述べる[8]。
しかし2月27日、第27回衆議院議員総選挙において、民主党は過半数に届かず、左右社会党が議席を伸ばした(定数467、民主党185、自由党112、左派社会党89、右派社会党67、その他14)。社会党が再統一の折衝を始めたのを受けて、保守陣営も合同に向けて動き始める。4月12日、三木は鳩山に無断で「保守合同のためには鳩山首班に固執せず」と語り、合同に柔軟な姿勢を見せた。しかし、民主党の松村謙三・三木武夫派や自由党の吉田等、合同に反対する勢力も少なくなかったことから、5月以降、鳩山と緒方竹虎両総裁の許可のもの、三木武吉、大野伴睦両総務会長が極秘に接触し、合流交渉を進める。6月4日、両総裁が公式会談、共同談話が発表され、保守合同に向けて大きく動き出す。
9月下旬より、新党の初代総裁の人選が話し合われたが、民主党は話し合いによる鳩山総裁の選出、自由党は公選を主張して折り合わず、平行線をたどる。その最中の10月13日、社会党再統一が先んじて達成される。民自両党の交渉の結果、翌年春までの間は、鳩山、緒方、三木、大野の4名が総裁代行委員として運営に当たり、内閣は鳩山が続投するが一旦総辞職して新内閣を発足させる、との妥協が成立。合同反対の派閥も説き伏せられ、新党へ合流しなかったのは吉田茂、佐藤栄作、橋本登美三郎のみであった[9](この3人も鳩山が退陣したあとの1957年に自民党に入党している)。
1955年11月15日、民自両党は合流し、自由民主党が結党(衆議院299、参議院118)。第2次鳩山内閣は一旦総辞職し、11月22日、第3次鳩山内閣として再発足する。総裁を巡っては、1956年1月28日に緒方が急死したのを受けて事実上鳩山のライバルが不在となり、4月5日、第1回総裁選では事実上の信任票となって鳩山が大勝して、初代総裁に選出された[10]。
- 後史
1955年の社会党再統一と保守合同をもって、自民党と社会党による保革二大政党が対峙する55年体制がスタートするが、結党当初の自民党は吉田派・反吉田派、党人派・官僚派、戦前派・戦後派など複雑な人間関係、思想対立の要素が絡んでおり、決して磐石であるとはいえなかった。保守合同した当時、三木武吉は自民党について「10年持てば」と言い、松村謙三は「30年後には崩壊する」と予想する等、この体制が長く続くと想像する向きは少なかった。
しかし、日本経済の高度経済成長による歴代政権への支持や、野党の多党化や社会党の零落によって自民党に代わる大勢力の不在を前にして、自民党の一党優位体制は長らく続き、いわゆる「政・官・財」の癒着構造、派閥などによる役職・資金配分のシステムや派閥抗争による擬似政権交代などに支えられる形で時を追うにつれてその政治的基盤は次第に強化されていった。自民党は保守勢力を代表する一大政党として長期間にわたり君臨しており、以降70年以上にわたり、戦前の保守二大政党体制の復活には至っていない。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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