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良岑長松

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良岑 長松(よしみね の ながまつ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。名は良松とも記される[1]大納言良岑安世の次男。官位従四位上山城権守

概要 凡例良岑長松, 時代 ...

経歴

承和年代の初頭に常陸権大掾伊予掾を歴任した。

承和5年(838年遣唐使准判官として渡唐したが、翌承和6年(839年)の帰国時に嵐に遭い漂流し、南海の島に漂着した。同乗者の多くが命を落とす中で幸運にも生き残り、遣唐知乗船事の菅原梶成(医師)らと協力して壊れた船の廃材から船を仕立て直し、承和7年(840年)6月大隅国に帰着した[2]。同年中に従六位下から4階昇進し従五位下叙爵された。

その後、仁明朝では侍従丹波介縫殿頭を歴任した。

嘉祥3年(850年文徳天皇即位に伴い、従五位上に叙せられた。のち、宮内大輔諸陵頭を経て、文徳朝末の天安2年(858年)正月に武蔵守に転任すると、大和権守但馬権守河内守山城権守清和朝から陽成朝にかけては主に地方官を歴任した。またこの間、貞観10年(868年正五位下元慶元年(877年従四位上に叙せられている。

元慶3年(879年)11月10日卒去享年66。最終官位散位従四位上。

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人物

の名手で、腕前を見込まれて遣唐使に選ばれたが、他に才能は無かったという[3]

官歴

六国史』による。

脚注

出典

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